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双月の森 【第33話】

アリスたちは、荒涼とした平野を静かに進んでいった。
二か月前、魔物の襲撃により人々が姿を消したこの場所は、今では信じられないほどの静寂に包まれている。
道すがら、荒らされた村から魔物が這い出してくることもあったが、騎士たちがあっという間に倒してしまう。
それ以外は、しんと静まり返っており、前衛の部隊が倒していったのだろうと思われた。

空には鉛色のぶ厚い雲がかかっている。
ほとんど光は届かず、白黒の絵のように景色がくすんでいた。

アリスは歩きながら、ぼんやりと足元を見ていた。
あの日の、鼻をつく煙のにおいが離れない。
指先も土と血で汚れている気がする。
ざらりとする感触さえ感じられ、きゅっと手をにぎる。

(……なんで、このタイミングで思い出すんだろう)
アリスは自分を腹立たしく思う。

ぽん、と背中に温かい手が添えられる。
ルシだった。
眉間に皺が寄っていて、ひどく心配そうな顔をしている。

「……大丈夫だよ」
アリスは無理に口角を上げて笑ってみせた。
ルシは一瞬、何かを言おうとしていたが、すぐにまた前を向いて歩きだす。

張り詰めた空気を誤魔化したくて、アリスは慌ててルシに話しかける。
「ルシ、すごく大きい剣を持ってるね」
「……小剣は折れたからな」
その予想外の言葉に、アリスは驚き、顔を上げてルシを見る。
「大剣の方が落ち着く」
「……ルシ、ほっとしたような顔をしてるね」
(それと、少しだけ切ない表情…………)

「……え?」
今度はルシが、虚を突かれたようにアリスを見返した。
「何か……ルシにとって大切なことなんだね」
アリスが優しく微笑むと、ルシは少しの間を置いて答えた。
「……ああ」
ルシの言葉は短いけれど、気持ちを教えてくれた……。
それがルシにとって、すごく大きな出来事だとアリスは知っている。
アリスは小さくうなずくと、それ以上は何も聞かず、ただ黙ってルシの隣を歩いた。

しばらく歩いたとき、ルシが呟くように小さな声で尋ねた。
「なぁ、アリス……何かあったんだよな?」
その瞬間、ぎゅっと喉が絞まっていく感覚がした。
声が出せなくて、頭を何度も振った。

アリスの頑なな様子に、ルシは諦めたみたいに視線を逸らしてしまう。
それがひどく悲しくて……でも、本当のことなんて、言えるわけがなかった。

『ルシ、わたしね。
   むかし人を殺してしまったんだよ。』

(秘密って、ルシとの距離も遠くなっちゃうんだな……)
……心が痛い。
思い出さなければ何も問題はなかったのに。

本当は、ルシにだけは全て打ち明けてしまいたかった。
けれどそれが、自分が楽になるためなのか、ルシへの信頼なのか、アリスにはわからなかった。
(だから、言えないよ…………)

アリスは顔を伏せると、涙を堪えた。

   ◇◇◇

平野の向こうに、再び険しい山影が見えてきた。
「皆、あの山を越えた先、峠に亀裂がある。油断するな!」
セレーナの鋭い声が全員に響く。

その時、アリスはふと隣に奇妙な気配を感じた。
視線を向けると、そこにいたのは昨日見かけたあのローブの男だった。

「──殺しあうことに、意味はあるのか?」
男は低い声で、アリスに問う。
その意図が分からず首を傾げた、まさにその瞬間だった。

山陰から、突如として巨大な影が飛び出してきた。
凄まじい衝撃で地面へ着地し、ズン……と身体の内側に響くような重い地鳴りが轟く。

アリスはよろけて、ルシの腕に掴まった。
ルシの背に隠れるようにして、怖々と前方を窺う。

それは見上げるほど巨大な獅子の魔物に跨った、イグニルであった。
魔物が空を割るように咆哮し、雷鳴のように空気をビリビリと震わせる。
黒い鎧を纏ったイグニルはランスを構え、皆の前に立ち塞がった。
鎧の隙間からは不気味な霞が漏れ出ており、あたり一帯の空気がどんよりと濁っていく。

「アリス、前に出るなよ」
ルシがイグニルを見ながら静かに口にする。
低く抑えられた声とは裏腹に、ルシの内からは肌を刺すような凄まじい闘気が感じられる。
アリスは気圧されるように一歩後ろへ下がった。
そして、震える手で杖をぎゅっと握りしめ、ルシの背中を見つめた。

セレーナが先頭に立ち、鞘から鋭く直剣を引き抜き盾を構える。
ルシは背負った巨大な大剣の柄に手をかけ、一気に引き抜いた。
その横ではリィンが、両手杖を静かに掲げ、魔力を練り始めた。

アリスは、ぬかるんだ地面にぐるりと防御壁の魔紋を描く。

「いくぞ!」
セレーナの号令とともに、皆が一斉に地を蹴る。

──同時に辺りに白い光が広がった。

アリスが展開した防御壁の輝きだった。

そして、堪え切れなくなったように、ザアアアアッと雨が降り出す。
叩きつけるような強い雨足に、視界が白く煙る……。
衣服は一瞬で濡れそぼり、ズンと身体に覆いかぶさるように重くなった。
アリスは、頭から冷たい水滴が伝い背中まで落ちていく感覚に、ぞわっと寒気がした。

白い雨の中、イグニルから放たれる黒い霧がゆらゆらと立ち昇り、雨に濡れた鬱蒼とした山々が、まるで壁のように連なっていた。

騎士たちは声を上げ、イグニルへと斬りかかる。
イグニルがそれを巨大なランスの一振りで薙ぎ払った。盾が大きな金属音を立て、騎士たちはザザッと力任せに後退させられる。
ガリッとガラスを削るような嫌な音を立てて、アリスの防御壁に亀裂が入っていく。

イグニルが動く度、威嚇するように腰のメイスや剣がジャラジャラと不穏な音を立てる。
興奮した獅子が再び咆哮を上げると、すかさずリィンが牽制の魔法を放ち、一瞬の隙を作り出す。
そこへ騎士たちが再び斬りかかったが、イグニルの鎧はあまりにも硬く、皆の剣を弾き返していった。

「セレーナ!この雨じゃ、私の炎魔法は役に立たないわ!」
「了解した!」
セレーナが獅子の前足を狙って鋭く剣を振るう。
だが、獅子は驚異的な跳躍力で高く飛翔し、それを軽々と躱した。
空中からイグニルが鋭くランスを突き出してきたが、セレーナもまた、しなやかな身のこなしで紙一重で躱した。

着地し、一気に距離を取ったイグニルが、ランスを水平に構え直した。

「避けろ!」
セレーナの声と同時に、イグニルは突進する。

バリンと激しい破砕音を立てながら一撃で防御壁が割られ、凄まじい衝撃波が生じ、騎士たちは泥水を撥ねながら地面へと転がっていく。
巻き上がった泥を被り、ルシが通過する獅子の足元を狙って大剣を振るが、これも飛び上がって躱される。

「獅子がやっかいだな」
ルシが顔を拭いながら獅子を睨む。
「ああ、まずは獅子をどうにかしよう」
セレーナは、次の攻撃に備えた。

後方に立つアリスはみんなの様子を見て、急いで防御壁を張り直した。

   ◇◇◇

その時、アリスの耳に奇妙な『声』が届いた。
「…………?」
激しい雨音に混ざりながら、それはだんだんと大きくなる。

──どうしていきてるの?
ぞわっと鳥肌が立つ。
──ずるい、じぶんだけ
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
──にがさない
過去がフラッシュバックする。

周りを囲むマナが、ドロドロと粘着質なものに変貌していく。
足元から這い上がり、ずるずるとアリスの身体に縋る。

”また” 自分はこんなものを呼んでしまったのか…………。

──みんないなくなれ

「やだ……やめて……」
一歩、一歩と後ずさりする。指先からみるみる体温が奪われ、氷のように冷たくなっていく。
「来ないで……」
アリスに縋りつく『それ』は、ついに全身を覆い尽くした。
視界が真っ黒に奪われ、雨音さえ聞こえない。

もう、息をすることさえできなかった。

「アリス!!」
異変に気づいたピルケが、アリスの元へ猛スピードで飛び込んできた。
「アリスだめ!聞いちゃだめだよ!!」
小さな手で必死に彼女の頬を叩くが、アリスの瞳は完全に焦点を失っている。

「リィン!大変だよぉ!アリスがっっ」
ピルケは叫びながらリィンの元へ飛びついた。

リィンがはっと振り返ると、アリスは虚ろな様子のまま、ゆらゆらと魔紋を描いている。
その瞳には何も映っていない。
アリスを中心に、周りのマナの淀みが大幅に増していく。
「──まずいわね」
形の良い眉を寄せ、リィンも急いで魔紋を描き始めた。
激しい雨に濡れた黒髪が、ピタリと青白い頬に張り付いている。

ガツッ……アリスが杖を地面に打ち付けた。

「あれは……」
ピルケが震えながら呟く。
川の上流から、地鳴りを伴った低い轟音が響き渡る。
「死んじゃったひとの声だから……」
不穏な音に、戦場にいた全員が一斉にそちらを振り向いた。

「みんな!下がってーっっ!!」
リィンが、普段の優雅な様子からは想像もつかない大声を張り上げ、必死に叫ぶ。

ドオォオン!という爆発のような轟音と共に、濁流と化した巨大な水の塊が押し寄せてきた。
その水面から生える無数の手が、生きている者を掴もうと蠢いていた。

──それは、命すべてを呑み込もうとする、死者の怨嗟だった。

「なんなんだ?!」
「下がれ、押し流されるぞ、下がれー!」
騎士たちが声を上げながら、必死に後方へと退避していく。

大量の濁流が皆を容赦なく襲う。
巨大な獅子が足元を掬われ、無様に横倒しになった。
獅子は激しい水流に逆らうことができず、もがきながらそのまま流されていく。
イグニルだけはランスを深く地面に突き立て、濁流の中で辛うじて耐えていた。

ミシミシとアリスの張った防御魔法にひびが入り始める。
じわり……と、冷たい水が皆の足元へと広がっていく。

「まずいぞ!」誰かが叫んだ。

その時、リィンの瞳が強い光を宿し、迫り来る水の塊を真っ直ぐに見据えた。

──ドッと、力強く杖を突く。

次の瞬間、地面の泥や石を巻き上げながら、巨大な土人形が生み出された。
むくむくと立ち上がり、土人形は皆の盾になるように、その身で濁流を真っ正面から受け止める。
凄まじい水の勢いに少しずつ削られ、押されながらも、リィンは魔紋の上で必死にその形を維持し続けた。

少しずつ水の威力が収まっていく……。
「水が引いていくぞ……!」
誰かが安堵の声を漏らした。

「これは、ゴーレム……?」
セレーナが呟く。
「ふふ、人形師ですから」
リィンは燃えるような赤い瞳を細め、不敵に微笑んだ。

「みんなー!アリスがいないよー!」
「あっち! あっちに流されていったわ!」
空を飛ぶ妖精たちが、大雨の中でチカチカと明滅し、必死に指をさしながら叫んだ。

その声を耳にした瞬間、ルシの身体は水を蹴り上げ駆け出していた。

すれ違いざま、セレーナが叫ぶ。
「ルシ、ここは僕たちが食い止める! 」
ルシは走りながら、一瞬だけ背後のセレーナに視線を送った。
セレーナの力強い瞳が、その視線に込められた想いをしっかりと受け止める。

──ルシの姿は、激しい雨の向こうへと、瞬く間に消えていった。

   ◇◇◇

「……ルシ、アリスを頼んだぞ」
セレーナは低く呟くと、猛り狂う獅子に向かって疾走した。
騎士たちも雄叫びを上げながら、その背に続いて地面を蹴る。

イグニルも動き出すが、ゴーレムに足止めを食らう。
「あれに乗せるわけにはいかないのよ」
リィンが、髪を耳にかけながら笑う。
雨が頬から顎へ流れていく。
薄暗い雨の中、その赤い瞳と唇がひときわ際立っていた。

イグニルはゴーレムに向き直ると、無言でランスを水平に構える。
ドンッ、凄まじい踏み込みと共に突進する。
ランスは容赦なくゴーレムの胸を貫く。しかし、ゴーレムは倒れない。
穿たれた穴は、周囲の泥を巻き込みながら瞬く間に埋まっていく。

「素材なら、この周りに溢れているもの」
リィンはゴーレムへ魔力を注ぎ続ける。

リィンが杖を傾けると、ゴーレムがイグニルに腕を振り下ろす。
イグニルは腕甲で受け止め、再度攻撃を加えていくが、ぐにゃりと泥にめり込むだけで手応えがない。
降り注ぐ雨がゴーレムに柔軟性を与えている。形を保ち続けるリィンの高い制御能力と、相乗効果を生み出している。
イグニルは苛立たしげに目を細め、距離を取ると再度ランスを構え直す。

一方、騎士たちは怒りで暴れ回る獅子の魔物と交戦していた。
獅子は泥を蹴り、咆哮を上げ、鋭い爪で切り裂いてくる。イグニルのような圧倒的な破壊力はないものの、その身のこなしは驚異的に素早い。

太い前足が空を裂き、騎士たちに襲いかかる。
騎士たちは盾でその衝撃をいなしながら、隙を突いて剣を振るった。
セレーナはその乱戦の中、重点的に獅子の足元を狙って鋭い一撃を重ねていく。

怯んだ獅子が後退し、このまま押し切れると思ったとき、獅子の背後から不穏な無数の気配がした。
地鳴りのような足音と共に、さらなる魔物の群れが迫り、雨音の奥から、泥を撥ね上げる悍ましい足音が響き渡る。
「隊列を組め!乱されるな!」
セレーナの号令が飛ぶ。次の瞬間、騎士たちと新たな魔物の群れが正面から激突した。
バンッと金属と硬い爪がぶつかり合う凄まじい音が、辺り一帯に鳴り響く。

だが、怯えている者はどこにもいない。
セレーナは、この過酷な作戦の中で見違えるほど成長した騎士たちの姿を、誇らしく思った。

彼らの背中を信じ、セレーナは目の前で再び牙を剥く獅子へと、まっすぐに視線を戻す。
「君はなかなか強いね」
声音はどこまでも静かだった。セレーナは、ひとり獅子と対峙する。

獅子が牙を剥いて飛びかかってくると、それをしなやかな動きで躱す。続けて今度は、強靭な後ろ足が襲い来る。
セレーナは限界まで姿勢を低くしてそれを避けると、すれ違いざまに獅子の足を深く切り裂いた。
ダァンッと轟音を立てて獅子が崩れ落ちる。止めを刺そうと踏み込んだが、殺到する他の魔物たちに阻まれてしまう。

降りしきる雨が、セレーナのシルエットをなぞるように弾かれていく。
──風の加護だった。
彼女の白銀の鎧と髪が白く輝く。それはこの嵐の中で神聖な光を放っているようだった。
涼やかな青い瞳は、どこまでも冷静に戦況を見つめている。

ヒュッとまるで風のようにセレーナの剣が舞う。
雨さえも、その風と同調するように踊り出す。
きらめく水滴が、美しい曲線を描きながら白銀の刃をなぞっていく。
剣を鋭く振り切った一瞬、刃の上の水滴は時間を止めたように静止し、気づいたように地面へと落ちた。

セレーナが動きを止めた時には、周囲を囲んでいた複数の魔物が、すでに黒い霧となっていた。
流れるように、獅子の喉元へ一太刀入れる。
巨躯の獅子の姿は、激しい雨の中に溶けるように霧となって消えていった……。

しかし、魔物は途切れることなく次々と湧き出してくる。
「……ここからは持久戦だな」

泥にまみれ、息を切らしながらも、騎士たちは誰一人として剣を引くことなく、新たな魔物へと向かっていった。


本日もお疲れさまでした。
アリスの抱えていたものがはっきりと見えてくる回でした。
「獅子に乗ってるって変わってるね」と突っ込まれましたが、馬より強そうかな?とそのままにしました。

今回のBGMは、Janus Rasmussenさん。
Kiasmosのメンバーのおひとりです。叙情的で美しいエレクトロ音楽が大好きです。

それではまたどこかで。

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