双月の森 【第3話】
ある日ルシは起き上がって本棚の前にいた。
窓から差し込む光の中で、立ちながら本を広げて読んでいる。
「あ!無理しないでって言ったじゃないですか」
外から戻ったアリスが慌てて近寄ってくる。
薬草籠を棚の上に置くと、目を凝らしてルシのマナを確認する。
ルシはそれがあまり好きではない。
「……もう大丈夫だ」
本棚に本を戻し、立ち去ろうとする。
「わたしが診て大丈夫って言うまでは大丈夫じゃないです」
珍しく強い口調だった。
ルシは少し面食らったように立ち止まり、アリスを見た。
アリスは真剣な顔で「座ってください」と白い指で食卓の椅子を指す。
「………………」
ルシは大人しく従った。
衣服を捲り、傷口を確認しながら、アリスは気になっていたことを尋ねてみる。
「この傷は、誰がつけたんですか……?」
矢傷は、もうきれいに塞がっている。
「……依頼の相手だ」
臓器の機能も問題ないようだった。
「それは……裏切られてしまったんですか?」
「まあ、似たようなもんだな」
アリスはちらりとルシを見上げ、そっと衣服を戻した。
表情からは何もわからなかった。
「あなたの仕事には、絶対の味方はいないってことですよね……」
「かもな」
「つらく……ないですか?」
「俺には向いてる」
「ひとりぼっちは寂しいです」
俯いてそう言うアリスに、ルシはしばらく黙りこむ。
「余計なことを考えないで済む」
「余計なこと?」
「もういいだろ」
拒絶するように言い切った。
「……すみません。しつこく聞いてしまって」
アリスは席を立って、キッチンへ向かった。
お茶を淹れて戻ると、ルシは食卓に座ったまま窓の外を見ていた。
何かを思い出しているようだった。
朝の光を受けた森の緑が、深い藍色の瞳に映り込んでいてきれいだ。
ルシの前にことんとカップを置く。
温かな湯気と共に、お茶と蜂蜜の香りが立ち昇る。
「……蜂蜜、平気ですか?」
「ああ」
(一緒に座ってもいいのかな?)
アリスは少し迷うが、丸い食卓に一緒に座った。
カップを両手で持って、ふうっと冷ます。
「興味のある本はありましたか?」
黙り込むルシへ話を振ってみる。
「星の本が結構あるから」
「ヴォルマノスの部屋にはもっと専門的な本もありますよ!」
「……そうか」
僅かに表情が和らぐ。アリスは少し嬉しくなった。
ほっとするような蜂蜜の香りがふわっと鼻をくすぐる。
一口飲んで、しあわせだなぁと息を吐く。
「本当に、この森は静かだな」
少し冷めたお茶をルシも持ち上げて、一口すすった。
「はい。すごく落ち着きます」
こと、とふたりは静かにカップを置く。
何も話さなくても苦しさは感じなかった。
アリスは焼き菓子を作ってあることを思い出し、ぽんと手を叩いた。
「おなかは空いていませんか?」
キッチンへ行き、焼き菓子の入った籠を持って戻る。
掛けていた布を外すと、バターとリンゴの香りがテーブルいっぱいに広がる。
「甘く煮たリンゴを挟んだケーキです」
「食べたことない」
ルシは不思議そうな顔でケーキを眺める。
「甘いものが苦手じゃなければ食べてみてください!」
アリスは器にそっとケーキを乗せ、スプーンと一緒に渡す。
薄めに焼かれたケーキに、とろりとした黄金色のリンゴがたっぷり挟まっている。
「これ、リンゴが落っこちるのでスプーンで崩しながら食べるんです」
アリスは楽しそうに笑いながらやってみせ、小さな口にスプーンを運ぶ。
なるほど、とルシはうなずき食べてみる。
サクサクと心地よい音が響き、リンゴの甘い香りが漂う。
「……うまい」
「しあわせーってなりませんか?」
「肉の方がそうなる」
「あはは!ルシはお肉が好きだからかぁ」
アリスは思わず大きな声で笑ってしまう。
食べ終わるとルシはテーブルに肘をつき、顎を乗せる。
風で外の木の葉が揺れ、ルシの瞳も潤んだように揺れる。
アリスは新しいお茶を淹れながら微笑む。
そして本を取り出して広げた。
「ルシはこの景色を見たことはある?」
それは星空が美しいことで有名な国の絵だった。
「この本を書いた人の故郷なんです」
「……オムニド……?」
ルシは囁くように声に出した。
「あ!知っていますか?」
ぱあっと顔を明るくしてルシを見る。
「…………っっ」
ルシの表情を見たとき、アリスは息を呑んだ。
見ているだけで泣きたくなるほど悲しそうだった。
「あ……ルシ、ごめんなさい……」
そっと本を閉じた。
席を立って、ルシの肩へ手を乗せる。
「大丈夫ですか?もう休みますか……?」
「だから他人とは関わりたくなかったんだ」
アリスは思わず肩に添えた手を下ろした。
「………………」
泣きそうな顔で見下ろすアリスを一瞥し、ルシは顔を伏せる。
その顔は傷ついているように見えた。
「ルシ、余計なことを聞いてごめんね……」
怖くて、アリスの声は掠れていた。
「お前が悪いわけじゃない」
「……でも、ルシ……」
ルシは俯いたまま、絞り出すように言った。
「……昔、仲間がいた。俺のせいで死なせた」
「…………」
下ろした手をきゅっと握る。
──アリスは、ルシが時々うなされているのを知っていた。
眉を寄せて、下を向くと髪の毛がさらりと落ちる。
「それは……」とアリスは静かに声を出す。
言葉を選ぶように、一瞬黙り込む。
「あなたのせいじゃないかもしれない……」
「……俺がそう思えないなら、そうなんだ」
反論できなかった。
──わたしも、その気持ちを知っているから。
目を伏せた彼の瞳には、もう森の緑は映っていない。
深い藍色、彼の瞳は深海みたいだ……。
水の底で何かが響き、波紋が広がっていく。
アリスの心は静かに共鳴する。
音が無くて、真っ暗で、孤独な場所。
ルシがふいにアリスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しの強さに心臓がドクンと跳ねる。
「…………ルシ?」
「お前は…………?」
──あぁ、あの感触が蘇ってくる。
忘れたいのに忘れられない。
「……わたしには、消せない罪があるんです……」
思わず口にしていた。
「わたし……は…………」
でも、肝心なところは喉が詰まって口に出せない。
唇が震える。
指先が冷たくなる。
胸が苦しい。
どくん、どくんと心臓が脈を打つ。
煙のにおいがする。
そして、土のにおい。感触がする…………。
ルシの手が、そっとアリスの肩に乗せられた。
身体がびくりと震える。
ルシは何も言わなかった。
深海のような瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。とても静かだった。
アリスも涙で揺れる瞳で見つめ返す。
暖炉の薪が、ぱちぱちとはぜる。
しばらくの間、ふたりはそのままだった。
ふぅ……と息を吐き、アリスは寂しそうに微笑んだ。
◇◇◇
翌日の朝、ルシは自分の荷物を整えていた。
アリスはそれを見て、何も言わなかった。
彼がここを出て行く人間だということは、最初からわかっていたから。
ヴォルマノスがお茶を無言でルシの前に置き、ふんと鼻を鳴らした。
「お主もう行くのか」
「ああ」
「どこへ?」
「だいぶ遅れたが、依頼がある」
ルシはよく手入れされた武器をまた身に着け、確かめるように手を添える。
「そうか、寂しくなるのう」
クロークを羽織るルシを見ながら、ヴォルマノスは顎鬚を撫でた。
「アリス、何か持たせてやれ」
「はい」
アリスはすでに小さな革袋を用意していた。
中には自分が煎じた薬草の小瓶と湿布薬、食料と水が入っている。
ルシに差し出すと、少し逡巡し、しかし受け取ってくれた。
そして鞄から四つ折りにされた紙を取り出し、差し出す。
「……世話になった」
アリスはそっと紙を広げてみる。
「あ!これ、星図ですね!」
「この国から見える星……」
少しくたびれて、ルシが使っていた痕跡のある星図は、森の外の世界のにおいがした。
アリスはにっこり笑って、それを胸に抱く。
「また怪我をしたら、いつでも来てください!」
「するつもりはない」
「説得力ないですけど……」
ルシは何も言わなかったが、口の端がほんのわずかに動いた。初めて見る表情だった。
アリスもつられて笑った。
ルシが小屋の戸を潜り、森への道を歩き始める。霧がゆっくりと彼の輪郭を溶かしていく。
(潜っていくみたいだな……)
アリスは小屋の入口に立って、その背中が見えなくなるまで見送った。
ヴォルマノスが隣に来て、静かに言った。
「また会うじゃろ」
「……そうなのかな」
「この森に拒絶されずに入れる男なのだからの」
アリスは空を見上げた。雲のない、青いだけの空がただ広がっていた。


淡々と日常を重ねていくような物語が好きなので、今回も派手な展開が起こらない双月の森です。
すごく小出しにされる過去。どのくらい情報を開示するといいのか、判断が難しかったです。もっと入れるべきだったのかな?
ルシが去ることを残念がって拗ねるヴォルじい。
寂しさに気づかないふたり。
寂しさって時間が経つと辛くなってくるものですよね。
キャラクターもリアルも、みんなしあわせでいてほしいです。
今回のBGMはLane 8さん。
ストーリーを感じるアルバム。美しくて切なさを感じます。
ぜひ聴いてみてほしいです。
それではまたどこかで。
