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双月の森 【第30話】

澄んだ小川のほとりで馬たちが水を飲んでいる。
のんびりとした動きだった。ふとこちらを向く、素朴な顔立ちの馬だ。
そしてまた水を飲み、草をむ。

「在るがままだな……」
ルシは呟くと視線を落とし、本のページをめくる。

「──ルシ、どうしてこんなところにいるの?!」
頭上から声が降ってくる。
「……息が詰まるからだ」
ルシは平然と答えた。
「もう……傷が治っていても、魂は傷ついたままなんですよ。動いたらまた……」
「無理はしない」
嘘ではなかった。もう傷はアリスが治してくれていたし、体の動きにくさも無くなった。
左手も力が入る。問題なさそうだった。
アリスは心配そうに顔を覗き込む。
「せめて上着くらい羽織ってください。今度は風邪をひきます」
そう言うと、すとんと横へ座る。
ふわり、と花の香りがする。
「治療になると厳しいな、アリスは」
「だって……ル、ルシがおとなしく眠っていてくれないから……」
本気で心配する姿が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「あっ!なんで笑って…………」
アリスもつられてくすくすと笑い出す。

「アーリスーっ!!」
がしっとアリスの腕に妖精がしがみつく。
「ピルケ、どうかした?」
「ロゼがアリスたちに話しかけたらダメって言うんだもん」
「え?どうして?」
ルシは、やかましい方の妖精だなと思った。
「あー!ピルケ!少しは空気をよみなさいよねー!」
赤い妖精は、最低!と腰に手を当てて怒っている。
「ロゼ、大丈夫だよ?おいでよ」
アリスがおろおろしている。
「ルシ、この子はロゼっていってね、お花の香水を作る魔法が得意なんだよ」
アリスが差し出した手の上で、ロゼが胸を張っている。
「アリスにぴったりの香りでしょ?!」
ルシはアリスに顔を寄せて、匂いを嗅ぐ。
「いい香りがする」
懐かしい気持ちがする。森の朝みたいな。
「ル、ルシ……っ?!」
「あ、アリス!顔真っ赤だよー!」
「ピルケさいてー!」
そのまま額をアリスの肩に乗せた。

「…………っ」
我慢しても、肩が震える。
「え?ルシまさか笑って……あっ……からかってる?!」
(でも、本当に似合ってる)ルシは笑いながら、そう思った。

バサッと膝から本が落ちる。

「あ、これ、星座の本……?」
「これだけ持ってきた」
「そっか……」

アリスが丁寧に本を拾う。そっと砂を払い、ぱらりとめくる。
「ぼくにも見せてー!」「あたしもー!」
アリスの膝に本を乗せ、全員で覗き込む。

柔らかい長い髪が、顔を隠すように、はらはら落ちていく。
ルシはアリスの横顔にかかる髪を、思わずよけて耳にかけた。
アリスが不思議そうな顔で見上げ、そして微笑む。

(目が覚めたら、嘘みたいな平穏さだ……)
花の香り、小川の音。アリス……。
ルシはこのまま時間が止まればいいと、柄にもなく考える。

「これシカのかたち!」
「これはコジカ座?一緒じゃない?」
妖精たちの子供のような高い声。
くすくすと笑うアリスの一緒

ルシは木にもたれ、目を閉じる。
風が吹くと、アリスの香りがした。
瑞々しさと甘さを感じる香りにほっとする。

(覚えた……)

そして目を開けると、東の空を見た。

──森へ帰るためには、前へ進まなくてはならない。
この光景を忘れることなく覚えておこうと、ルシは静かに思った。

   ◇◇◇

「すまない、皆こちらへ集まってくれないか」
セレーナの声が野営地へ響いた。

「え?!なになにー?」
「あ!あたしも行くー!」
ピルケが興味津々で飛んでいくと、ロゼも後を追いかけて行った。

「ありがとう」
アリスはルシへ本を返す。
「ああ」
ルシは大切そうに本を受け取った。
アリスはその動作がなんだか嬉しかった。

「……なんで笑ってんだ」
「なんでもない」
ルシは不思議そうに首を傾げていた。
「行きましょうか!」
ふたりは立ち上がると、歩き出した。

焚き火の側に野営地の騎士全員が集まっていた。
怪我をした騎士も歩けるようになっていたので、天幕から出て参加していた。
木箱の上に地図が置かれ、それを囲むように並んでいる。

焚き火には水を煮沸するための大きな鍋がかけられ、ぐつぐつと音を立てている。
夏の陽射しや焚き火の熱で、木箱の周りはむっとしていて暑い。
ぱちぱちと薪がはぜる音がそれを助長する。

「見えるか?」
「大丈夫だよ」
アリスには地図が見えなかったが、身体を持ち上げられたりしそうだなと思って黙っておいた。

「先ほど伝令がやってきて、前衛部隊がイグニル二体と交戦し、勝利を収めたと報告があった」
セレーナが丸めた羊皮紙を手に、ルシへ視線を送る。
「君が身を呈して一体を倒してくれたんだってな。ありがとう」
ルシは小さく口角を上げ、返事をした。

アリスは驚いて、勢いよくルシを見上げる。周りの騎士も振り返っていた。
ひそひそと話す声が響く。「すごい……」と誰かが呟いた。

(イグニル……あんな強い相手と?)

ルシはアリスの視線に気づくと顔を向け、わずかに首を傾げている。

(ルシを……失う可能性だってあったんだ……)
あの重傷を思うと、すっと血の気が引いた。
アリスは両手でルシの腕を、ぎゅっと掴んだ。

ルシはアリスの様子をもう一度見ると、掴まれていない方の手でアリスの手を握った。
「ルシ……」
自分の手を包む、その温度に涙が出そうになる。

「──そして、補給部隊からの物資も受け取ることができたんだが……アリス」
名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。
「怪我人たちが移動できるようになるまで、あとどれくらいかかる?」
「歩くだけなら問題はないと思います。戦闘や激しい動きをすると傷が開いてしまいますが……」
「そうか」とセレーナはうなずく。
地図を長い指先でなぞり、とんと鳴らした。
「この先は扇状地と平野が広がっている。果樹園や農村があった地域なんだ」
「道も整備されているわ」リィンが言う。

セレーナはしばし逡巡し、言った。
「よし、では明日の朝ここを立とう」
全員がうなずいた。

   ◇◇◇

会議を終えた後、アリスは持っていた薬草の小瓶をかばんから取り出した。
小瓶を開けると、熱さを払うような爽やかな香りが漂う。
アリスは鼻歌を歌いながら作業していく。

乾燥したレモングラスの葉を、香りが立つように指先で軽く揉み潰し、同量のミントと一緒にポットへさらさらと入れる。
そこへ長いひしゃくを使って、鍋から熱湯を注いだ。
お湯の中で茶葉が躍るように広がっていく。
(いい香りー……)
立ち昇る湯気の香りにうっとりしつつ、ポットの蓋を閉めた。

アリスは蒸らしている間に、地面に魔紋を描いていく。

指先へ魔力を集めて、ポットへかざす。
静かに冷気の魔法を唱える。
ポットがキンと凍っていく。

アリスは冷やしたお茶をカップへ注ぎ、蜂蜜を垂らした。
(おいしそう!)
「あ、アリスさん、それなんですか?!」
若い騎士が興味深げに近づいてくる。
「レモンミントのお茶です!どうぞ!」
笑顔で渡すと、嬉しそうに受け取ってくれる。
「わっ、冷えてる!これ魔法ですか?!」
「はい!それに体を冷やす効果のあるお茶です」
若い騎士は一気に飲み干した。
「美味しいです!爽やかで暑い日にぴったりですね!」
「みなさんに配ってもいいですか?」
アリスが尋ねると、若い騎士は笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます!アリスさんがいてくれて、みんな喜んでいます!」
「……そう言ってもらえて、嬉しいです」

「なぁみんな!アリスさんが冷たくておいしいお茶を淹れてくれたぞー!」
若い騎士が声をかけると、みんなが集まってくる。
「冷たいだって?!」「僕も欲しいです!」

受け取るときも、飲んだ時も、みんなの顔に笑顔が浮かぶ。

「アリスさん、ありがとう!」

アリスはそれがとても嬉しかった。
騎士たちへお茶を渡す間中、自然に顔が微笑んでいた。

「セレーナさん!これをどうぞ」
アリスは天幕内で仕事をしていたセレーナの元へお茶を持って行った。
「ん?外でみんなが楽しそうにしていたのはこれか」
セレーナが笑いながらカップを受け取る。
「冷たいレモンミントのお茶です。少し蜂蜜で甘くしました」
「わぁ、いい香りだね」
目を細めて、そしてゆっくりとカップを傾けた。
「うん、すごく美味しいよ!」
アリスは思わず笑顔になる。

「アリス、本当にありがとう」
「みなさんが喜んでくれると嬉しいです……」
セレーナは両手でカップを持ちながら微笑む。
「君がいると、みんな笑顔になるよ」
「……え?」
「雰囲気が優しいからかな?いてくれるだけでみんなが自然と笑ってる気がする」
「わたし……何かできていますか?」
アリスは常に思っていることを尋ねた。
「もちろんだよ。もう、いなくてはならないくらいだ」
セレーナが真っ直ぐにアリスを見つめながらそう言った。

つぅっと涙が頬を伝った。
「……よかった……です」

「ありがとう、来てくれて」
セレーナはそう言うと、そっとアリスの頭を撫でた。
アリスは顔を上げると、にっこりと微笑んだ。

   ◇◇◇

その日の夜、野営地の上にはひんやりと輝く二つの月が昇った。
昼間の暑さが嘘のように、肌を刺すような冷たい夜風が吹き抜ける。
立番の騎士たちは、恋しそうに焚き火の炎を眺めた。

アリスは怪我人たちの天幕を訪れ、傷を確認していた。
これなら明日の出発も大丈夫だと、ほっとする。
そして薬草茶を淹れると、皆に配っていく。

「アリス、これは……」
ルシが固まっている。
「明日から移動だし、少しでも良くなればと思って」
首を傾げながら答える。

「聞きたいんだが」「え?」
「自分で飲んだことはあるのか?」
アリスはきょとんとしている。
「ない、です……」

ルシからカップを受け取り、一口含む。
「…………っっ!!!」
「お前…………」
「に、にが……い……」
アリスの顔が思い切り歪んでいた。
思わずカップを落としそうになるが、ルシがそれを取り上げる。

「ぷっ……」
やり取りを見ていた、周りの騎士たちが吹き出した。
「す、すみません!こんなに濃くて苦いとは知らなかったんです」
アリスは全員に向けて頭を下げる。

騎士たちは優しく笑ってくれる。
「大丈夫だ、薬だと思って全部飲むから」
「アリスさん気づいてなかったんですね!」

なんて優しい人たちだろうとアリスは顔を上げる。
ルシは呆れ顔だったが、全て飲み干してくれた。
(今度からは、もう少し薄くしなきゃな……)


アリスはみんなからカップを受け取ると、小川で洗っていた。
クロークを羽織りながら洗っているが、水が冷たくて、手がかじかむ。

川に影が映り込むと、隣にルシがしゃがんだ。
「手伝う」
「ありがとう」
並んでカップを洗っていく。

「……ルシ、ごめんね……苦いもの飲ませて」
「初めて飲んだ時、驚いた……」

「あの時に、元気になってほしくて作ったものなんです……」
申し訳なさそうに、ぽつりと口にする。
「俺は実験体だったか……」
ルシは笑っている。
「まぁ、元気にはなった」
「ごめん……」

ルシは落ち込むアリスを見て、話を変える。
「あの時、お前目も合わせないし……俺のこと嫌ってるのかと思った」
アリスは驚いて顔を上げる。
「あれは……ちょっと怖くて……」
「俺、でかいしな」
ルシが次のカップを手に取って洗い始める。
アリスはその指先を見ながら思い返す。

「ルシに、怒られたんだもん……触るなって……」
がっしりと掴まれた感触も覚えていた。

ルシはバシャンとカップを落とし、川に流されていく。
慌てて追いかけて拾う。
「怒った?記憶に無いんだが……」
アリスの隣に戻ると、眉間に皺を寄せて考え込む。

「そっか……覚えてないならよかった……」
アリスはちょっと安心する。
「……悪い。他には何もなかったか?」
「うん、大丈夫だよ」
掴まれたことは秘密にすることにした。
「そんなこと、思ってないから」
眉間に皺を寄せたままルシが言った。
「……はい」
(聞けてよかったな……)

アリスは小さく微笑むと、ルシの眉間の皺に指先で触れた。
「……皺、すごい寄ってます」
「……冷たい」

ルシはアリスの手をそっと握った。
ルシの手も水で冷たくなっていたが、アリスは顔がほころぶ。
(いいんだ、触れても……)

「ルシ、今度からは苦くない薬草茶を作るからね」
「普通のお茶が飲みたい」
「寒いし、今から淹れましょうか?」
「……一緒に飲むなら」

ふたりは洗い物を終えると、焚き火の側へ行き、並んでお茶を飲んだ。
ルシがよく眠れるようにと、アリスは茶葉を選んだ。

カモミールとドライリンゴのまろやかな香り。
黄金色こがねいろのお茶に、二つの月が映り込む。

「今日は月が青いな」
「ヴォルマノスも見てるかな?」

森からずいぶんと遠くまで来たなと、アリスは思った。

「見てそうだな」
ルシが穏やかに笑う。

「ルシ……」「ん?」
腕に伝わるルシの体温や、焚き火の温かさに目を細める。

「……無事に会えて、よかった」
アリスは、揺れる炎を見つめながら言った。
「……そうだな」

「一緒に森に帰ろうね」
アリスはじっとルシを見上げた。
「………………」
ルシは何も言わず、静かに笑った。

アリスはその表情を見て、なぜか泣きたくなった。
涼しげな二つの月を見つめて、涙を堪えた。


本日もお疲れさまでした。

再出発の前夜まででした。優しい人ばかりの野営地で素敵です。
アリスのお茶がたくさん出てきて嬉しかったです。
ルシも最後に甘い香りのお茶が飲めてよかった。

寝起きアリス(のんびり起きます。
寝起きルシ(早起きです。


今回のBGMはClean Banditさん。
クラシックとEDMの融合が大好きです。Grace Chattoさんのチェロを弾く姿もかっこよすぎて泣けます。
Symphonyは多幸感溢れるメロディーと、「わたしはあなたの鼓動に合わせて踊る。あなたがいなければわたしは不完全なの。あなたのシンフォニーの一部になりたい。」という愛が溢れる歌詞がもう……好きすぎます。

それではまたどこかで。

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