【小説】『パンドラ・ファイル』(その9)『虚像の聖域(サンクチュアリ) ~4月19日、亡き妻からの招待状~』【第二部:パンドラの介入】第4章:リーダーの欠席
午後十時。パンドラの定例会議の時刻。
暗号化された仮想会議室には、いつもの三つのアイコンが点灯していた。しかし、その中央――リーダーである「Axiom(剣崎)」が座るべき場所は、冷たく沈黙したままだった。
「遅いわね、Axiom。一分の狂いもなく現れるのが彼の公理だったはずだけど」
Rose(ローズ)の、懸念を孕んだ声がスピーカーから響く。
Bit(ビット):
『おかしいよ。メティスにアクセスしようとしたんだけど、強力なファイアウォールで弾かれたんだ。それも、Axiom本人が設計した最新のプロトコルでね。……まるで、僕らから「引きこもっている」みたいだ』
Abacus(アバカス):
『……引きこもっているだけならいいがな。Bit、例の「監視プログラム」の結果はどうだ?』
Bitは、パンドラ内での緊急合意に基づき、剣崎の個人資産口座の動きを(非公式に)モニタリングしていた。
Bit:
『……最悪だよ。今朝、一億二千万円が、一度も聞いたことのない国内のペーパーカンパニー経由で、海外の暗号資産ウォレットに送金されてる。Axiom本人の生体認証で承認されてるから、ハッキングじゃない。……彼自身が、自らの意志でドブに捨てたんだ』
一瞬、会議室に重苦しい沈黙が流れた。
数々の巧妙な詐欺を見抜いてきた彼らにとって、自分たちのリーダーがこれほど巨額の詐欺――それも明白な怪しい案件に手を出すなど、論理的にあり得ない事態だった。
「……今日は彼の誕生日だったわね」
ローズが静かに呟いた。
「知性は孤独を救えない。でも、孤独は知性を狂わせるわ。アバカス、送金先の『エターナル・リンク社』の実体は?」
Abacus:
『空っぽだ。実在する研究所の住所を借りているだけで、代表者の経歴もすべてAIで生成されたフェイク。……だが、使っている技術は本物だ。世界最高水準の生成AIモデルを、特定の個人データを学習させるためだけにチューニングして使っている』
「つまり、Axiom専用の『オーダーメイドの嘘』を作ったってことか」
Bitの声に怒りが混じる。
「あの人を騙すために、そこまでコストをかけた奴がいるなんて……。絶対に許さない。パンドラのリーダーをカモにするなんて、僕ら全員への宣戦布告だよ」

「Axiomは今、鏡の中の亡霊と心中しようとしているわ」
ローズがプロファイリングを完結させた。
「彼が自分で扉を閉めたのなら、私たちが外から壊すしかない。……メティスを奪還し、彼の目を覚まさせるわよ。……いいわね?」
『了解』
パンドラのメンバーたちは、かつてない決意でキーボードを叩き始めた。
彼らが救うべきは、名もなき被害者ではない。
自分たちの知性の拠り所であり、親代わりでもあった、剣崎宗一郎という名の「公理」そのものだった。
その頃、剣崎の書斎では。
暗闇の中、モニターに映る陽子の笑顔だけが、不気味なほど優しく彼を照らし続けていた。メティスは、主人の命令と自身のプログラムの間で、音を立てて火花を散らしているようだった。

