見出し画像

僕のキャリアは、シュレッダーから始まった。── シュレッダー、9.11、MIT。現場から学んだ経営のリアル

社会人として、僕が見た「リアル」
はじめまして。元・総合商社で、30年近く実務に携わってきた古川光泰です。
このnote連載では、僕が経験してきた「撤退の修羅場」や「新規事業の立ち上げ」「9.11のNYでの命拾い」「MITでの知財戦略」といった、現場でしか見えなかった「生きた経営」のリアルを綴って行こうと思います。
これは教科書ではありません。あくまで「現場での記録」です。「今の仕事に迷っている方」「次の一手が見えない経営者の方」にこそ、何かのヒントになれば、これほど嬉しいことはありません。

第一回 赤字1000億、僕は引き継ぎ書をシュレッダーにかけた

─総合商社の片隅から始まった
   ”実行経営”の修羅場──

◆  プロローグ
  ー普通じゃない”ところから
                   始まったキャリアー

 僕が総合商社に入ったのは、バブルがはじけたばかりの1992年だ。少し前の期まで、顧客の接待で帰りのタクシーを確保する役が大変だったと聞いたが、接待そのものが激減した。
 僕らが入社する前の数年、会社は中規模の損失をあちらこちらで出していた。だから、社員の基礎教育の重要性を再認識した人事部方針により、我々の少し前の期より新人の多くの部分が「教育配属」として経理部門に配属された。
 そして配属発表の時、辞令に書かれた“XX経理部“の文字に同期達は沈んだ気持ちになった。
 1年目にプラント部門の経理、2年目に前例のない取引と連結対象会社が多い情報産業部門の経理に配属されていた僕にとり、日々の残業に加えて投融資理論と米国会計基準の勉強をする羽目になり、飲み会どころではない2年間だった。しかし今振り返ってみると、その後の撤退においても投資・買収においても、ここでの知識が本当に、本当に役に立ったと実感する。
 そして、もう一つ、忘れられない出来事があった。

◆ 命拾い──一本遅れた電車と、霞ヶ関駅の全速通過

 ある朝、まさかの寝坊だった。いつもの時間に家を出られず、一本遅らせて千代田線に乗った。 途中で電車が止まり、国会議事堂駅で30分ほど停車しただろうか。遅刻を心配し、内心焦りを感じていた。しばらくすると車内放送が流れる。
 「大変お待たせして申し訳ありません。次の霞ヶ関は事故があり通過します。尚、通過にあたり車内の窓を全て完全に閉めていただけるようお願い致します。お声がけをしあってご協力下さい」
 奇妙な放送だと感じつつも、言われるがままに近くの窓を閉めると、電車が動き出した。そして徐々にスピードを上げ、通常なら事故防止のために減速するはずの薄暗い霞ヶ関駅を、まるで何かに追われるように、異常なスピードで突っ切っていく。その異様な速さが、一層不穏な空気を生み出していた。 通過した瞬間に見えた薄暗い駅で、白いマスクを被った人たちが歩いている。霞ヶ関駅で何があったのだろうか。
 日比谷駅に到着すると車内全体の緊張感がとけて窓を開けた。会社に着くと、皆が仕事を放り出してテレビに釘付けになっていた。何事かと思いテレビを見ると、霞ヶ関駅で毒ガスが撒かれたテロがあったというニュース。それが地下鉄サリン事件であった。
 もし、僕が寝坊などせず、いつも通り一本早い電車に乗っていたら──間違いなく、あの地獄の中心にいた。寝坊という、ただそれだけの偶然が、僕の命を拾い上げたのだ。体中の血の気が引いた。ぞっとするほどの生々しい恐怖が、胃の奥からこみ上げてくる。
 あれほど明確に「命を拾った」と感じた瞬間は、他になかった。あの日までは。

◆  初めての出向、そして「会社を創る」ということ

 入社から2年と少し経った頃、僕は情報産業部門に異動になった。最初は投資ポートフォリオの管理と、当時流行していたポケットベルのチャネルマーケティングを担当していた。  その後、会社が米国のインターネットプロバイダーと提携し、日本に合弁会社を設立することになり、僕は初めての出向を経験する。
 今まで全ての仕組みが整った大きな会社にいたので分からなかったが、会社をゼロから立ち上げることは困難を伴うものだと痛感した。皆で手分けをして業務を進める中で、僕は経理時代の知識を活かし、新会社の会計基準を策定すると同時に、設備投資となる通信機器のリーススキームを検討した。
 また、当時のインターネット通信はダイヤルアップ方式で、一般の電話回線を通じて接続ポイントに電話をかけて繋ぐものだった。その接続点をどの市外局番にいくつ用意するかが鍵である。少なすぎると通話中で接続できない問題が生じ、多すぎると無駄な設備投資となる。これをマーケティング分析によって決定する作業も行った。更に、通信事業者として郵政省(当時)からの許可を得る作業も同時進行で進めた。
 そして開業日と同時に、僕は異動になった。

◆  初めての撤退、そして「会社を畳む」ということ

 次に出向した会社はPHS(パーソナルハンディホン)という簡易携帯電話の事業者で、当時の累積損失が約1000億円という問題を抱えた会社だった。
 そもそもPHSは、公衆電話の競合として、「いちいち公衆電話を探す手間を省き、どこでも通話できる」という位置付けで開始されたサービスだった。だから、基地局間を移動しながら通話する「ハンドオーバー」は想定していなかったのだ。しかし、ここにマーケティング上の落とし穴があった。顧客はPHSを小型の携帯電話と認識していたため、当然、車や電車などで高速移動中に通話することを望んだ。加えて、携帯電話の利用料が下がるにつれて、PHSの価格優位性も失われつつあった。 
 PHSは「公衆電話の延長」として生まれたはずが、顧客の認識は「携帯電話の廉価版」であった。この決定的なズレが、致命傷となったのだ。
 僕が出向した会社には株主が15社もおり、撤退するにもその方法がなかなか決まらなかった。僕に与えられたミッションは、会社の息の根を止めず、しかし無駄な出血は一切止めること。同時に、顧客が離れて価値がさらに下がることを何としても食い止める、という綱渡りのようなものだ。
 しかし、会社に行ってみると皆がのんびりと仕事をしており、危機感が全く感じられなかった。「今までのやり方ではダメなのに」と、僕は焦燥感を募らせた。

◆シュレッダーで始まった“撤退ミッション”──1000億赤字のPHS会社へ

 仕方なく、まずは象徴的な行動として、僕は受け取ったばかりの引き継ぎ書を、皆の目の前で躊躇なくシュレッダーにかけた。バリバリと音を立てて、紙が細切れになっていく。その音は、まるで積み上がった問題の山が崩れていくようであった。場の空気が一瞬で凍り付いたのが、肌で分かる。
 しかし、それでいいのだ。 危機に気づいてもらうには、“普通”を壊すしかなかったのだから。
 次に手をつけたのは、大量の電話機の在庫だ。その在庫を得るため、売らなければならないと思い込み、営業マンは頭を下げて回り、端末の価格以上の手数料を店舗に支払っていたのだ。これではキャッシュが出ていく一方である。当時、某総合商社から来ていた社長と役員は難色を示しもしたが、倉庫料や手数料などのキャッシュフローを考慮し、これらを全て破棄処分とした。その上で、新しいインターネット接続対応端末を少量ずつ製造する仕組みへと変更し、値段をつけて売るようにした。
 当時は携帯電話もPHSも代理店への多額のインセンティブが支払われていた。事業者にとってその財資は契約後に顧客から支払われる利用料であった。だから契約期間の縛りがあり、直ぐに解約が出来なかった。一方販売店は多額のインセンティブを財資に端末の価格を0円に設定しても利益が出るようになっていた。これが行き過ぎると架空加入して一定期間契約をした上で解約しても利益が出るようになり、悪名高い代理店もいくつかあった。
 だから代理店についても、そのようなところは選別し、販売体制を組み直してもらった。
それでもキャッシュフローは厳しく、経理部長と頻繁に打ち合わせながらキャッシュフロー予想を確認し、社員の給与が支払えるように現金を抑えて販売したのを記憶している。 
 結果として、出向からちょうど2年後、事業を他種の通信事業者に譲渡し、全社員を解雇して会社を畳んだ。僕の最後の3ヶ月の仕事は今までの仕事に加え、この解雇される職員たちの再雇用支援だった。それが初めての人事経験だった。
 その時に某総合商社からの出向者幹部からその会社関係の若者A君を優先して雇用されるように頼まれた。これが合弁の実態だ。僕はA君を後回しにせざるを得なかった。A君が悪かったわけではないが、少しでも公平性を全社員に示したかった。つくづくサラリーマンは向いていないなと自分で思いながら。

◆“企業はなぜ失敗するのか”──2つの敗因

 僕はなぜ企業が失敗するのか、この時真剣に考えた。この会社に関しては、敗因が二つあったと分析している。
 市場調査とマーケティングの致命的な失敗。 ──この事業の最初のコンセプトは「誰が使ったかわからない公衆電話の通話口を顔につけるのは嫌だよね!?」という、あくまで公衆電話の置き換え需要を狙ったものだった。だから事業化の時に調べたのも、公衆電話の場所と数。
 しかし、PHSは「移動体電話」であることに変わりはない。携帯電話の月額利用料や通話料が使いやすく値下がりすると、PHSは正面から競合する。勝負にならないのは、最初から目に見えていた。市場の本質を、全く捉えられていなかったのだ。
 "親会社頼み”の組織体制が招いた硬直。 ──最初からそれなりの規模の組織を持ち、社長以下の幹部は全て親会社からの転籍か出向であった。これが本当に致命的だった。そもそも親会社の多くが消費者ビジネス(BtoC)を理解していないのだ。社長も、株主の一社である某総合商社の副社長経験者で、優秀な方ではあったが、消費者ビジネスの経験は皆無であった。これでは、最初から大企業病に蝕まれても仕方がなかった。組織は硬直し、短い歴史の会社にもかかわらず「前例」が異常なまでに重んじられるような状況であった。
 この時僕は、現場主義がいかに重要であるかを、骨身に沁みて思い知った。

▶︎第二回予告
「なぜ世界1位の携帯メーカーは日本で負けたのか」
  ーガラパゴスと撤退から学んだ“構造の罠ー


お楽しみに。

いいなと思ったら応援しよう!