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【掌編小説】藤のまにまに(#せりふ三題噺)

 ずいぶん精度があがったとはいえ、やはり天気予報は外れることもあるらしい。予報では曇りのち雨だといっていたのに。
「日焼け止め、塗り忘れた」
 照りつける太陽を見上げて、紫乃は呟いた。

 神社の参道を、紫乃はゆっくりと歩く。思ったよりも本殿まで距離があり、途中の茶屋で一休みしながらようやく辿り着いたときには、軽く汗をかいていた。

 賽銭を入れて、二礼二拍手一礼。きっかり十秒祈った紫乃は大きく息を吐き出し、くるりと踵を返す。

 御守りの授与所に立ち寄ると、色とりどりの御守りたちが並んでいた。どれを選ぶか悩む紫乃の目に、絵馬が飛び込んでくる。藤の絵が描かれた、美しいものだ。

 紫乃は絵馬を一つ手に取り、「これをください」と巫女に声をかけた。初穂料を受け取った巫女は、「絵馬はあちらにお掛けください」と美しい所作ですっと手を伸ばす。示された先を見やると、見事な藤棚がそこにあった。

 藤棚の真下にたくさんの絵馬が掛けられているのを見た紫乃は、そちらに足を向ける。絵馬には様々な願いが書かれていた。

(家内安全、合格祈願、恋愛成就⋯⋯推しへの愛)
 最近はこんな内容の絵馬もあるのか、と興味深く絵馬を見ていた紫乃は、ある一つの絵馬を見た途端、凍りついたように体が動かなくなった。

「彼を、忘れられますように」
 ほっそりとした文字で綴られたそれを、紫乃はゆっくりと指でなぞる。まさに今、自分が書こうとしていた願いそのものだった。

「そなたも、縁切りをしに来たのか?」
 突然声をかけられた紫乃は、勢いよく顔を上げる。揺れる藤の間から、着物を着た若い娘の姿がのぞいていた。赤地に藤の花がくっきりと描かれた着物は、可愛らしくも艶やかだ。

「その絵馬の人は、報われない恋にとても苦しんでいた。だから私が、その憂いを忘れさせてやったのだよ」
 娘はふわりと宙に浮いた。

「私は、藤の精霊なんだ。私の気が向いたときに、ここにある絵馬の内容を叶えてやっている。若い女性の恋の願い事は特に優先的に、な」

 ここだけの話だよ、と娘は口元を着物の袖で隠してふふっと笑う。そして小首を傾げて紫乃を見た。

「そなたも、誰かを忘れたいのか?」
「⋯⋯はい。抱いてはいけない想いなのです。どうしても、忘れたい。前に進みたいの」
 紫乃は震える声で言った。

「相分かった。では、藤の舞を舞ってみせようぞ。この舞を見ている間に忘れられたなら、それでよし。忘れられないならば、そなたの覚悟が足りぬか、または私の力ではどうにもできぬほどの強い想いだということ。そのときは潔く、想いを墓場まで持っていくといい」

 風に乗った紫の花びらが、くるくると旋回する。娘がふわりと着物の袖を翻し、舞い始めた。どこからか陽気で楽しげな音楽が聞こえてくる。舞う娘の髪に挿してある藤の簪がゆらゆらと揺れるのを見つめているうちに、紫乃の心も自然と浮き立った。
 しかし次の瞬間、よく知った香りが鼻をかすめる。

(⋯⋯この香りは)
 サンダルウッド。彼の匂い。脳裏に、穏やかに微笑む彼の姿がよぎる。

「どうやら、舞は失敗のようだな」
 娘のがっかりした声に、紫乃は我に返った。既に風は止み、舞っていた花びらは地に落ちている。

「そなた、本当は忘れたくないのであろう。まだ心に未練があるようだ。私の力は、最後の一押しにしかならない。もし本当に忘れたいのならば、その覚悟を決めて、また来るがよい」

 ふっと娘の姿が掻き消える。紫乃は藤棚の隙間から差し込む陽の光を、いつまでも見つめていた。


藤の花はとても綺麗で好きなのですが、地面に落ちた花びら、けっこう掃除しにくいです⋯⋯。

こちらのお題で書かせていただきました。

画像は、みんなのフォトギャラリーよりお借りしました。

#せりふ三題噺
#サンダル日焼け止め藤棚



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