【掌編小説】埋まらない空白
文房具店の手帳コーナーで、唸る二人組がいた。
「うーん、どれがいいでしょう⋯⋯」
若い女が悩みながら呟く。
「こっちのは、機能的でシンプル。これは、デザインが可愛らしい。で、そっちのは細かい予定まで書ける」
隣にいたロマンスグレーの男が、それぞれの手帳の良いところを述べる。
「うーん、しっくりくるものがないんですよね⋯⋯。シンプルなのもいいんですけど、ちょっとサイズが大きいかな。あと、お値段が⋯⋯」
「じゃあこの、デザインの種類が多いものは?」
「表紙は素敵だけれど、予定を書き込む欄が小さいんですよね」
「難しいな。細かい予定まで書けたほうがいいなら、これだけれど」
「でも、デイリーの時間単位まで予定を書くか、と考えると⋯⋯」
「まあそこは、人によるな」
難しい、と再度口にした男は、腕組みをして嘆息した。
「すみません、ネガティブなことばかり言って。うじうじ悩まずに、スパッと決めればいいですよね」
「いや、美奈さん自身にとって使い心地のいいものを選ぶべきだよ。それにこのご時世、スマホにだってスケジュール機能や便利なリマインダー機能があるし、メモ機能で代用もできるわけだから」
こうして、紙の手帳を使ってもらえるだけで御の字だと、かつて手帳を作る側だった男は笑った。
「ちなみに、神山さんはどんなものを使っているんですか?」
——うちの父さん、いつも手帳持ち歩いてるんだよね。サッと懐から取り出すのが、カッコいいの!
そう言って笑った親友の顔が脳裏をよぎる。
「うん? これだよ」
親友の言っていた行動そっくりそのまま、手帳を懐から取り出す様子に、美奈はふふっと笑いをこぼした。
「どうかした?」
「いいえ、ただ⋯⋯明菜さんが言っていたのを思い出したんです。うちの父さん、いつも懐から手帳出すのがカッコいいって」
「⋯⋯っ、そうか⋯⋯」
息を詰めた神山は、涙がにじむような声で何とか答えた。そして少し間を置いて呼吸を落ち着けた後、こう続ける。
「もう退職したから、義理立てする必要もないのだけれど。自分が手掛けたものだからか、やっぱり愛着があってね」
神山が手にした手帳は、重厚感のある黒革が印象的な、分厚い一冊だった。それを目にした美奈は、こみ上げてくるものを無理やり抑え込む。
(明菜が使っていたものと同じ⋯⋯)
華奢で可憐な雰囲気を持つ明菜には不似合いな、どこか無骨さを感じさせる手帳。あれは、憧れの父が作ったものだったのか。
「シンプルかつ機能的、そして手に馴染む一冊⋯⋯を、目指して作ったものなんだ。実際はまあ、たかが手帳なんだけれども」
照れ笑いをしながら言う神山に、何と言葉を返そうか考えていた美奈は、開かれた手帳のページを見て固まった。
八月の、最終日。
大きく丸がつけられたその欄は、しかし他の日と違って詳細な予定は書き込まれていなかった。
ただ、「明菜」と書き込まれているだけ。
この日はね、と神山は指先でそっと「明菜」の文字をなぞりながら言った。
「明菜が小さい頃、夏休みの宿題を全部終わらせていたら、どこかへ一日遊びに連れて行く約束をしていたんだ。あの子の母親と離婚してからも、その習慣は変わらなくてね」
あの子が成人した後も、この日だけは娘とデートするために、空けていたんだよ——。
「でももう、この日の予定、埋まらなくなっちゃったなあ」
再び涙の混じる神山の声に、今度こそ美奈は嗚咽を堪えきれなかった。
周囲の訝しげな視線を気にすることなく、店先で大号泣した二人は、落ち着いた後、顔を見合わせて少し笑った。
「ごめんね、いい歳してみっともない。それで、手帳はどれにするか、決まったかい?」
「はい。少しお高いかもしれませんが、神山さんと同じものにします」
——明菜と同じものに。
少し遅くなりましたが、こちらの企画に参加させていただきました。
ありがとうございます!
画像は、AIにお願いしました。
