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<前編>アレクサンダー大王の東方遠征

A Happy New 2026 Year!
今年も欧米や日本ではグローバリズムによる分断で大揺れになりそうですね。プーさんとキンピラさんのところは「ロシア正教」と「共産党主義」という宗教によって強権的アイデンティティが保たれているようですが・・。そこで、普通はグローバリズムというと大航海時代から始まることが多いのですが、今回は文明の融合をめざしたアレクサンダー大王の時代を見てみたいと思います。

ペルシア戦争

アケメネス朝ペルシアギリシアを攻撃するペルシア戦争が終わると、ギリシア北方ではフィリッポス2世に率いられるマケドニアが台頭、テーベをカイロネイアの戦いで破り、前336年に20歳のアレクサンダーに継承される。父フィリッポス2世はギリシアのアリストテレスを家庭教師に雇ってアレクサンダーに帝王教育を施し、同時にその教育にアレクサンダーの友人たちにも参加させた。教育内容はギリシア文化から政治学や倫理学に及び、アレクサンダーはトロイ戦争を描いたホメロスの叙事詩『イリアッド(イリアス)』を好んだようである。これによって、アレクサンダーが率いる軍団の各隊指揮官クラスが同時に養成される。
 
この時点で、マケドニアの西にはエトルリア人を概ね平定してイタリア半島の統一に向かうローマが、東にはペルシア帝国、その東には仏教が広がり始めマウリヤ朝が建国されようとするインドがあり、さらに中国は戦国時代、日本はまだ縄文時代である。当時のアケメネス朝ペルシアはエジプトや小アジアからインダス川流域に至るまでの広大な領域を属州に分割して総督に統治させ、それぞれの属州の習慣や宗教に寛容な対応を取り、「王の道」と呼ばれる道路網を整備するなど、帝国の統治に関する完成度を高めていた。ここからユーラシア大陸における壮大な世界史が始まる。  

東方遠征の始まり

アレクサンダーは自国をギリシア圏と考えており、ペルシアのギリシア侵攻への報復として対ペルシア戦争に着手、前334年にヨーロッパとアジアを隔てるヘレスポント(ダーダネルス海峡)を越える。続いて、グラニコス川イッソスと戦勝を続ける。これらの戦いにおいて、マケドニア軍の強さはファランクスと呼ばれる長槍歩兵とヘタイロイと呼ばれる貴族の子弟から成る重装騎兵によっている。また、戦術的には両軍の歩兵の戦列が前後左右に移動する中で僅かに生じた敵陣の間隙を、前線指揮するアレクサンダーが直属のヘタイロイ騎兵とともに突破し、敵将の後方に回り込むという戦場での機転を重視するものであり、帷幄のうちに勝敗を決するというものではなかった。

ヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡

 当時、ギリシアはマケドニアの下に完全に服属していたわけではなく、またギリシア本土以外にも多くのギリシア人による植民地が地中海沿岸に散在していた。そのため、アレクサンダーはペルシア内陸への侵攻に前もって東地中海沿岸からエジプトにかけての一帯をマケドニアの支配下に置き、後方の憂いを除去しておかねばならなかったのである。
 
アレクサンダーは前333年から東地中海沿岸に沿って南下する。当時、エジプトはペルシアの統治下にあり、アレクサンダーの軍が近づくと抵抗をやめ、彼は容易に首都メンフィスに到達してファラオの称号を受け継ぐとともに、ナイル川デルタの西端にアレクサンドリアを建設する。この都市はヘレニズム世界最大の都市となり、現在のエジプトではカイロに次ぐ第二の都市である。
 
アケメネス朝ペルシアの滅亡
前331年、アレクサンダーはペルシア内陸部への侵攻を開始、ユーフラテス川を渡り、チグリス川を越えたところの大軍を展開しやすい平原ガウガメラで両軍は激突する。ペルシア軍25万、マケドニア軍5万である。この会戦において、ペルシア軍は新兵器として鎌付きチャリオット(戦車)を用意してきた。
 
11月1日、両軍が布陣を終えると、まずマケドニア軍は戦列を維持したまま右前方にせり出してゆく。戦列を維持したまま横方向への移動を組み合わせて動くには高度の訓練を必要としており、訓練の行き届いたマケドニア軍にはそれが可能であった。マケドニア軍の陣全体が右方向に移動することは、ダレイオス3世が持ってきたチャリオットの正面から標的がそれてしまうことを意味する。
 
そこで、ダレイオス3世は標的がペルシア側から見て左方向にずれてしまわないうちにチャリオットを突進させる。しかし、これはマケドニア軍にうまくかわされてしまう。このチャリオット攻撃が空振りになった後、ダレイオス3世は戦列をマケドニア軍の移動方向に合わせて移動させようとするとともに、騎兵に両翼から回り込む包囲攻撃を命じる。しかし、ペルシア軍の練度はマケドニアに及ばず、左翼と中央の間に間隙が生じる。その瞬間、そこをめがけてアレクサンダーとヘタイロイ騎兵が突入し、ダレイオス3世に側面や後方からの脅威を加えて勝敗を決したのである。
 
ガウガメラでの勝利に続き、アレクサンダーは当時メソポタミア最大の都市バビロンに入城、総督マザイオス以下のペルシア高官を引き続き登用する。これは、少数のマケドニア人が多数のペルシア人を統治するための必要に迫られた措置であったが、同時に東西融合政策の始まりともみなせるものである。次いで、行政の中心であるスーサを占領してペルシア王となり、翌年の前330年にはペルセポリスに入城する。この時代のペルシアには王都がスーサ、エクバタナ、バビロン、ペルセポリスの4か所にあり、ペルセポリスは儀式用、他の3つは季節によって使い分けられていたようである。 

塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』から抜粋

最果ての地へ

ここまででペルシア征討という目的は達成された。しかし、アレクサンダーは逃げたダレイオス3世、さらにダレイオスに反逆したベッソスらの地方長官を追って、ペルシア帝国の周辺部であった中央アジアのバクトリア(現在のアフガニスタンと重なる領域)方面へと侵攻を開始する。そのルートは、現在のテヘラン付近から東進を続けてアフガニスタンのヘラートに入り、山岳地帯を大きく南に迂回してカンダハルに向かいカブールを目指すものである。このルートは現在アジア・ハイウェイ1号線となっている。グーグルマップを見ると、今はヘラートからバーミヤン近くを通ってカブールに通じる道ができているが、当時は行軍に適した山岳路がなかったものと推測される。
 
アレクサンダーは彼らを追ってカブールに入り、そこで冬を過ごす。前329年春にヒンドゥークシ山脈を越えてソグディアナ地方に侵攻する。ソグディアナは現在ではサマルカンドを首都とするウズベキスタンとなっている。彼らは地元のソグディアナ人や、さらに北方のスキタイ人を巻き込んで山岳地帯の砦に籠るなど頑強に抵抗したため、アレクサンダーは平定戦に2年を要した。

この過程でアレクサンダーはバクトリアからソグディアナにかけての「最果ての地」に都市アレクサンドリアを何か所か建設してギリシア人を住まわせるとともに、美人の誉れ高い豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚する(前327年)。これは現地との和解という政略結婚の意味も持つが、他方で東方かぶれの進むアレクサンダーと側近の間に隙間風が吹き始め、グラニコス側の戦いでアレクサンダーを間一髪のところで救った友人のクレイトスを宴会の席で刺殺するという悲劇も生じる。

(↑ アレクサンドロスとロクサネの出会い)
 
バクトリアの地を平定した後、前326年、アレクサンドロスはインドへの侵攻を開始する。当時、現在のパキスタンに当たる北西インドはペルシア帝国の宗主下にあった。カイバル峠を越えたマケドニア軍は現地の首長らを帰順させながらインダス川に到達し、舟橋を架けて渡河する。そこには、ポロス王率いる強力な軍勢が待ち構えていた。激戦の末にこれを破って帰順させた後、さらに東へ進もうとするが、ここで大問題が発生する。

塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』から抜粋

ここまででアレクサンダーの軍勢は疲労に苛まれていた。さらに、まだその先にはインダス川の支流がいくつも続く。しかも、現地の湿潤な気候や病害虫は敵兵以上に恐怖を駆り立てるものであった。兵士たちからはアレクサンダーに対して「どこへなりとも遠征なさるように」との声が出始める。そこで、彼もやむを得ず帰途に就くこととした。ただし、来た道をただ引き返すのではなく、インダス川を下って、そこからペルシア王都に向けて未知の道をたどるのである。

彼らはインダス川河口から極度に乾燥した炎天下のゲドロシア(バルチスタン)を沿岸に沿って行軍し、ペルシア湾から来たネアルコスの艦隊の救援を受けて、ようやくの思いで王都スーサに帰還する。この行軍があまりにも過酷であったためか、前323年6月10日、高熱を発していた32歳のアレクサンダーはバビロンにて逝く。その後、彼の大帝国は後継者争い(ディアドコイ戦争)を経て、本国のアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアに3分割される。 

支配領域を拡大させるにつれ、統治の必要性からマケドニア・ギリシア人とペルシア人の東西融和が進められることになり、今なおアレクサンドリアとして存続するエジプトの都市だけではなく、遠くバクトリアの地までギリシア植民地が建設された。カブールやカンダハルもその一つである。おかげで、中国西域のミーラン(鄯善)からギリシア起源の有翼天使像が発掘され、日本でも奈良法隆寺の回廊にその面影が見られる。 

奈良法隆寺の回廊。パルテノン神殿と同様に、柱の中ほどに僅かな
ふくらみを持たせるエンタシスという様式が採用されている。

まとめ

・当時のペルシアは大帝国を統治するための寛容なシステムを完成させていた。これは、現在のアメリカや中国と大きく異なる。
・アレクサンダー大王の東征によって、東西を結ぶシルクロードが開通し、文明の融合が進んだ。
・ただし、文明の融合に適応する人と適応しない人がいる。 

疑問

マケドニア軍の兵站はどうなっていたのか。最前線の兵力は常に4~5万人くらいであった。占領地の確保に多くの人数が割かれたことと思われる。以下の文献を見てもよくわからない。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争では統治の段階で米軍に多くの死傷者が出た。日本軍の場合は前線の兵数が多すぎて、食料や武器の補給が滞り、大勢の兵卒が無為に死んでしまった。 

<参考文献>

1)森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』、講談社学術文庫(興亡の世界史)。
2)塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』、新潮社。
3)NHK『文明の道 アレクサンドロスの時代』、NHK出版。 

<その他>

You Tube では、世界史のオカモトさんがアレクサンドロス大王シリーズを全11回にわたり解説しています。また、非株式会社いつかやるさんがグラニコス川、イッソス、ガウガメラの戦いなどを軽妙なタッチで詳しく解説しています。
 
次回は、アレクサンダー大王の死後、ディアドコイ(後継者)戦争を経て、マケドニア、エジプト、シリアのヘレニズム3王国の成立と行方を見ていきたいと思います。


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