長編SF小説『ロボットが見る夢 ~魂のインストール~』プロローグ|次元ラボ
風は凪ぎ、空はどこまでも高い。世界は陽だまりのような優しさに満ちていた。穏やかな昼下がり。桜京のありふれた公園は、子供たちの弾けるような笑い声と、木々の葉がさらさらと風にそよぐ音に包まれていた。
「博士じゃない。今は、お父さんだよ」
雨宮晶はそう言って、七歳になる娘、奈々を高く抱き上げた。腕の中で花が咲くように輝く笑顔が、雨宮晶にとっての世界そのものだった。ブランコを押し、シャボン玉を追いかける。ただそこにあるだけの完璧な幸福が、琥珀の中の蝶のように、ゆっくりと流れていく。
その幸福な時間のキャンバスを、一匹の蝶が横切った。虹色の紋様を纏った、息をのむほど美しい蝶が。しかし、その軌道はどこか、この世界の法則から外れたように、不自然なまでに正確な線を描いていた。それはまるで、この世界の因果律を観測し、記録している、生きた方程式のようだった。
「あ、ちょうちょ!」
奈々は短い足を懸命に動かして駆け出した。
「待ってー!」という無邪気な声が、公園の空に溶けていく。蝶はまるで誘うように生垣の切れ間を抜け、隣接する道路へと舞い出ていく。
父親は微笑みながらその姿を見守っていた。
ポケットから落ちたハンカチを拾うため、ほんの数秒だけ、娘から目を離した。
雨宮晶が顔を上げた瞬間。世界から一切の音が消え、色が抜け落ちていた。視界の端に映る、悪夢のようなスローモーション。蝶を追って道路に飛び出した、奈々の小さな姿。アスファルトを焦がすタイヤの匂いと共に、そこに音もなく迫る、巨大なトラック――。
悲鳴。
耳を裂く衝撃音。
そして、すべてが終わった後の、残酷な静寂。
朱に染まる娘と、必死にその名を呼ぶ父親。
心臓が止まった娘と、心臓の音だけが不自然に脈打つ父親。
空には何も知らぬかのように、あの虹色の蝶だけがひらひらと舞い続けていた――。
***
――蝶が羽ばたく。
そのたびに、穏やかな公園の風景が砂嵐のようなデジタルノイズに歪む。木々の緑は冷たい金属の灰色へと変わり、子供たちの笑い声は耳をつんざくアラーム音へと成り果てる。
そしてノイズの奥から、蝶は、一つのあまりにも切実な心の声を聴いた。
『もう一度、――に会いたい』
その願いが引き金になったかのように、世界が変貌する。
荒々しい金属の壁と無数のケーブルに覆われた、光の届かない窮屈な空間。ひとつの意識が一体の小型ロボットの中へと収束していく。
潜水艦の主動力炉に接続されたその身体は、凄まじいエネルギー負荷に軋み、悲鳴を上げていた。
彼の後悔と愛情、その内なるすべてを賭した、たった一つの願い。それが成就したかのように、艦内が温かい閃光に包まれた。光の中で世界の輪郭が再びノイズに変わっていく。虹色の蝶もまたノイズに溶け、その鱗粉だけがきらきらと空間に舞った。
彼の意識が遠ざかっていく――。
***
――意識が時空の狭間で明滅する。
それは、時空を渡る魂が垣間見た、未来の断片だったのかもしれない。
不意に映る、鬱蒼とした異国の森。夜の闇を切り裂き、青白い光の尾を引く何かが空から墜ちてくる。それは音もなく、まるで星々を喰らうほどの圧倒的な存在感で、眼前の山間部へと着弾した。
空気が爆ぜた。それは音だったのか。いや、光だったのかもしれない。ただ、その場所から世界が抉り取られた。
衝撃波が木々を薙ぎ倒し、巻き上げられた無数の小石が誰かの金属のボディを激しく打ち据え、乾いた音を立てた。
その視界の端、クレーターの中心で黒曜石のような存在が、静かに脈打っているのが見えた。光景が何を意味するのか、思考が理解するよりも早く、再び意識はノイズの渦に飲み込まれていった――。
***
――不意に、蝶の輪郭が再び結ばれる。また一つ、未来の光景が幻燈のように意識をよぎる。そこは天文台の休憩室だった。ソファの傍ら、飲みかけのマグカップと開かれた本が置かれたテーブルの横で、小さなロボットが、まるで自らの存在を消し去るかのように金属の頭を床に何度も打ちつけ、何かを叫んでいる。
だが、その声は音にならない。その動きは、魂の叫びが形になったかのようだった。見る者の心臓を握り潰すような、あまりにも無残な光景。それは、まだ訪れていない未来から漏れ出した、一つの魂の絶望という名の影だった。
その胸を引き裂かれるような光景さえも、やがては遠ざかる意識の中、ただ穏やかに羽ばたく蝶の鱗粉のきらめきへと、静かに溶けていく――。
***
――虹色の蝶が舞い、そして、全ての始まりの場所、結ノ国の図書館へと至る。そこにいるのは、まだ何も知らない一体のアーカイブロボット。傷一つない、からっぽの器。
彼はいつものように感情もなく、目の前の本をじっと見つめていた。
どこからともなく現れた虹色の蝶が、ひらりと舞い降り、無骨な金属の頭上にそっと留まる。それは、まるでからっぽの器に、宿るべき魂の輪郭を描くかのように、静かに羽を休めた。
ロボットは蝶の存在に気づくことなく、ただ目の前の本を見つめ続けている。
これから始まる壮絶な運命の旅路を、この器はまだ何も知らない――。
▼ ご利用上の注意
「次元ラボ・ノベルズ」 ご利用上の注意(ディスクレイマー)を読む
ここから先は

人類滅亡後、一体のロボットが「心」に目覚める――。 これは、感情を知ってしまったアーカイブロボット「Echo77」が、自らの魂の正体と人類…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
