風の向こう、列車の音(後編)
第二章 -蘭州・黄河のほとりにて-
蘭州の街は灰色の空に覆われていた。
黄河の流れは重く、黄色い濁流が石橋の下を唸るように通り抜けてゆく。
あれから半年。仕事で蘭州を訪れた私は、思い出の余韻に導かれるように、いつの間にか黄河の堤を歩いていた。晩秋の風が冷たく、街にはもう冬の気配が漂っている。
その時だった。
対岸の書店の前、古本を並べる木棚の前で、彼女が立っていた。スカーフはなく、代わりにベージュのコートを着て、髪はゆるくまとめられている。だが、その横顔は一度見たら忘れられるものではなかった。
声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。数秒の沈黙。そして、微笑。
「また、お湯の時間かしら?」
それはまるで、昨日の続きのような言葉だった。
それから数日、私は彼女と幾度も会った。昼は街を歩き、夜は小さな食堂で麺をすする。時には彼女の官舎に招かれ、紅茶を飲みながら夜を語り明かした。
そこには静けさはあっても、あの列車での孤独はなかった。
やがて、私たちは自然に、ひとつの布団の中で寄り添うようになった。彼女の肩に触れるたび、私は自分の胸のなかに生まれていた空白が満たされていくのを感じた。
「こんな時間が来るなんて、思っていなかった」
彼女はそう呟いた。
「私もです」
だが、幸せの足元には、かすかなひびが常に走っていた。
ある日、彼女が封を切っていない手紙の束を見せた。差出人の名前に、彼女の夫の名があった。
「離婚は…していないの」
彼女は言葉を選びながら続けた。
「形式だけの関係になって久しいけれど、甘粛の女性が自分から離れるのは…ね。噂もある。職も失うかもしれない」
私は言葉を失った。何か言おうとしたが、言葉にすればすべてが壊れそうで、黙った。
その夜、彼女は私の手を強く握りながら、静かに泣いた。
翌朝、彼女は何も言わず、いつも通りに出勤の身支度を整えた。駅の近くのバス停まで一緒に歩いたあと、彼女は振り返らずにバスに乗り込んだ。
それが、最後だった。
数日後、彼女は蘭州の官舎を出て、敦煌方面へ異動したと知らされた。住所も、連絡先も残されていなかった。
私は列車に乗って、蘭州を離れた。車掌が湯を配る姿が、あの夜の記憶を呼び覚ます。ポットの湯がカップに注がれるたび、あの温もりがよみがえった。
けれど、彼女はもう、振り返らない。
黄河のほとりで始まった二人の再会は、現実の川の流れのように、決して戻らなかった。
第3章 敦煌へ
彼女は敦煌へ異動となった。
表向きは「文化財保護のための現地支援」という名目だったが、誰が見ても、それは静かな左遷だった。
噂の火種は、あの蘭州での数週間のあいだにくすぶっていた。
女性幹部の一人が、軟臥車の中で若い男と二人きりで旅をしていたという話。
「未婚の若者を部屋に招いたらしい」「夜遅くに駅前の麺屋で親しげだった」「蘭州で宿泊先を訪れた者がいた」――どれも真偽は曖昧だったが、火に油を注ぐには十分だった。
1980年代半ばの中国では、改革開放が進み都市には活気が戻りつつあったとはいえ、特に地方都市では女性の「再婚」や「恋愛」はなお重い偏見の目に晒された。
彼女はまだ法的には既婚者だった。夫との実体のない関係が長く続いていたとはいえ、それを公にすれば“家庭を壊した”と非難されかねなかった。
「仕事を盾にして男を漁っている」
「エリート女性は自己愛が強い」
「夫がかわいそうだ」
そんなささやきが、階段の踊り場や、給湯室の扉の陰で交わされていた。
言葉に出さずとも、同僚の視線が変わっていくのを彼女は敏感に感じ取っていた。
何より辛かったのは、自分の心の奥が真実を知っていることだった。
――たしかに私は、恋をした。
――一度だけ、自分の人生を抱きしめてくれる人に出会った。
けれど、そのたった一度の感情を、世間は「奔放」と呼び、「裏切り」と決めつける。
彼女は抵抗しなかった。
説明も、否定も、しなかった。
それは、彼に対する最後の誇りだったのかもしれない。
敦煌の冬は厳しく、風は肌を刺した。
彼女は、古びた文化館の一室で資料の整理をしていた。時折、観光客が立ち寄ることもあったが、誰も彼女の目の奥を見る者はいなかった。
夜、窓の外に風がうなるなかで、彼女は紅茶を淹れ、あの夜の列車を思い出した。
湯気の向こう、沈黙を分かち合ったあの人。
小さな部屋に、あの人の声がふとよみがえることがあった。
思い出すたび、心の奥で熱いものがふくらむ。
だけど、蘭州に戻ることはなかった。
そして彼女は、ふたたび誰とも恋をしなかった。
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第4章 彼女からの手紙 ― 投函されなかった別れ】
蘭州を離れる前、彼女は一通の手紙を書いていた。
便箋は薄く、淡い緑色。墨のにじみが、どこか昔の手紙のようだった。
あなたへ
あの夜の列車、湯気のむこうにあなたがいたこと。
あの沈黙のやさしさを、わたしは今も覚えています。
何も約束せず、何も持ち出さず、それでも心だけはあなたに預けた。
わたしの暮らしは、また静かな日々に戻りました。
けれど、その静けさの中に、あなたの声がときおり差し込んできます。
もう二度とお会いすることはないかもしれません。
でも、夜汽車に揺られるとき、どうかほんの少しだけ、わたしを思い出してください。
あれは幻ではなく、確かな愛でした。
風の強い午後に
あなたを想いながら
― 李 淑華より
手紙は封をされることなく、便箋のまま、革の鞄の底に置かれた。
それは彼女とともに敦煌へ運ばれ、幾度かの引越しを経ても、彼女はそれを捨てることができなかった。
誰にも見せることなく、投函されることもなく、ただ彼女の孤独の傍らに在り続けた。
⸻
第5章 再会を果たせぬまま
時は流れ、改革開放の熱気もすでに遠い記憶となり、高層ビルとスマートフォンが人々の足元を照らす、新しい時代が静かに訪れていた。
彼は定年を迎えたあと、静かな地方都市に越していた。夜行列車も姿を消し、嘉峪関から蘭州を走っていた古い列車も廃止されて久しかった。
冬のある日、古書市を歩いていた彼は、ふと一冊の詩集を手に取った。表紙は無地、出版年は1988年。巻末の奥付に、見慣れた姓と名前を見つけた。
「編集協力:李 淑華」
震える手でページをめくると、詩のひとつに見覚えのある言葉があった。
― 風の向こうから名もない町が現れ
心の底にしずかに沈む
誰にも見えない痛みを抱いて
わたしはまた、一人で降りる
彼はその場で椅子に腰を下ろし、しばらく本を抱いたまま動けなかった。
彼女は生きていた。そして、言葉のなかで、彼に再び会いに来ていた。
しかし、連絡先は記されておらず、あとで問い合わせても、すでに彼女は5年前に亡くなっていたことを知った。敦煌郊外の小さな病院で、静かに息を引き取ったという。
家族もいなかった。
彼女の遺品の中から、小さな手帳とともに、宛名のない手紙が一通見つかった。
その文字は、彼が列車の中で見たあの小さな文字と、同じだった。
