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浪人した父、受験を知らない娘

うちの父は、自他ともに認めるポンコツである。

夏には蛍が、秋にはタヌキが見られる田舎で生まれ育った母が、「将来働きたくないから、慶應ボーイと結婚しよう」と思い立って慶應のテニス&スキーサークルで出会ったのが父であった。母1年生、父3年生のことである。父は浪人していたうえに留年もしていたので、この時点で4歳差というバグが起きていた。

うっかり屋根裏で見つけてしまった、ふたりが結婚式で来賓に向けて配ったらしいピンクのパンフレットには、出会いのきっかけに「コンパでお互いに“ビビッ”とキタ!」と書かれている。初デートはドライブ。こっそり兄の車を拝借していることを伏せ、さも愛車かのように“キザ”に乗り回していたらしい。こうして、父と母は付き合いはじめ、6年の交際期間を経て結婚した。母いわく「何度も別れたいと思った」らしいが、慶應ボーイという肩書きが母を踏みとどまらせた。昭和の慶應ボーイは最強だったのである。

しかし、おそらく父は学歴を詐称している。慶應ボーイらしからぬことをやらかすからだ。

・・・

目が悪い父はハードコンタクトレンズの愛用者だった。ハードレンズはソフトレンズに比べて2〜3年持つので、倹約家の父は使用期限を若干オーバーするレベルで大事に使っていた。

しかしある日、父は前日にやっておくべき煮沸消毒を忘れてしまった。当時コンタクトと言えば、消毒液ではなく熱で殺菌するのが一般的で、一晩かけてじっくりと消毒するものだったのである。困った父は、「そうだ!電子レンジで消毒しちゃおう!」とコンタクトをレンジに突っ込んだ。

バァン!!!!!!!!!!

両眼で50,000円のコンタクトは粉々に吹き飛び、レンジのなかに散った。当たり前だが、コンタクトの材質はプラスチックである。すぐさま「信じられない!!!!」と母の怒号が飛んだ。あれから20年の月日が流れ、父はソフトレンズ愛用者になった。ちなみに彼の得意科目は理数系である。

父は昔からよく寝ているので、母から“のび太くん”と言われている。休日はどこにも出かけず、いつもテレビの前でオットセイのように転がって野球を観ているので、暇を持て余した3人の子どもたちは「遊ぼうよぉ〜」と上に飛び乗っては駄々を捏ねていた。父は「ぐふっ」と呻きながらも、テレビの守護神のごとく頑として動かなかった。

隙あらば寝ようとする、筋金入りの眠り姫である父は、勤務中に眠気を堪えきれず、会社のトイレの個室の床にトイレットペーパーを敷き詰め身体を横たえて寝ていたこともある。「意外と快適に寝れるよ」と悪びれもなく話すのを見て、「会社って自由だなぁ」と思った。ただの問題社員である。

のび太くんと言えば、怠け者なところだけではなく、おっちょこちょいなところも似ている。わたしの7歳下の妹がまだ乳児だったころ、妹をあやすために抱っこをしながら軽快なステップで踊っていた父は、リビングに敷いてあったカーペットの上で滑って転倒した。

バァン!!!!!!!!!!

「何事!?!?」と寝室から飛び出してきた母が見たのは、父に抱き抱えられながらそのまま顔面から床に追突してギャン泣きしている妹と、後ろにずっこけたくせに器用に首を上げて己の頭蓋を守っている父の姿である。「信じられない!!!!」と母は怒り狂い、サッと父の腕から妹を奪った。

・・・

そんな、度々とんでもないことをしでかす父のことを、わたしはひっそりと憎んでいた。

中学1年生のおわり、家族でアメリカに引っ越すことになった。辞令である。長いスカートともダサい白ソックスともおさらば! これからどう先輩風を吹かせてやろうかしら!と目論んでいた矢先、これまで築いてきたものがすべて無に還るという事実に13歳のわたしは絶望した。コツコツと積み上げてきた成績も、やる気はないけど一応毎日練習してきた部活も、くだらないことで一緒に笑い合ってきた友人も、アメリカには持っていけない。

感傷に浸る間も与えられず、渡米して1週間も経たないうちに、ピカピカのノートブックを突っ込んだ趣味の悪いピンクのバックパックとともに、現地の学校に放り込まれる。まともに英語も喋れないなか、薄ら笑いを浮かべてクラスメートと対峙し、訳のわからないまま授業を受け、日本から持ってきたなけなしの漫画10冊が本棚に並ぶだだっ広い部屋で、部活の仲間からもらった手紙を読み返しては泣き暮れた。

それもこれも、すべて父のせいである。わたしが友だちができないのも、勉強についていけないのも、運動不足とハイカロリーな食事でぶくぶく太ってきたのも、アメリカなんかに転勤を決めた父のせいだ。学校の昼休み、ワイワイみんなが楽しそうに話している声を聞きながら、トイレのなかで母の握ったおにぎりを頬張った。自作のポエムノートに思いの丈をぶつけた。

あー、早く日本に帰りたい。まるで塔に幽閉された悲劇のヒロインのように、わたしは指を組んでお祈りをした。日本に帰ったら、可愛い制服を身に纏って放課後はマックで駄弁るのだ。体育祭では好きな男の子と鉢巻を交換してフォークダンスを踊り、文化祭ではクラス一丸となって現代版にアレンジされたシンデレラの演劇を成功させ、安い焼肉店で打ち上げをするのだ。

わたしは少女漫画とアニメによって形作られた妄想でパンパンに頭のなかを満たし、学校からダッシュで直帰してはブログや掲示板に入り浸り、インターネットの世界で日本と繋がりつづけることでどうにか自分を保った。日本の学校に転校してきた帰国子女、他クラスの人までが見にくるほど話題に…というシチュエーションを頭のなかで何度も思い描いた。英語のテストでひどい点数を取るたびに、「だからアメリカなんか来たくなかったのに!」と泣いて父と母に当たり散らした。

そんな4年間に渡る長い長い幽閉生活を経て、わたしは父と母を置いてひと足先に日本に帰ってきた。現代文と英語、小論文という簡易的なテストだけで合格できる帰国子女受験に成功したためである。ぶっちゃけ大学進学の意思はあまりなかったが、父から「大学には絶対に行け」と言われたため、渋々受験をした。それもこれも、長年の夢である日本での薔薇色ライフのためである。

「よし、今から青春を取り戻すぞ!」と鼻息荒くひとり暮らしを始め、おしゃれなカフェのバイトに応募し、意気揚々とバンドサークルに入部した。これから始まるであろう、キラキラとした日々に心を踊らせた。未来は明るい。わたしは、やっと自由になれたのだ!

・・・

アメリカに渡ったあの日から、20年が経とうとしている。

大学では、朝起きられなくて授業には全然出られなかった。バイトではモンブラン100個をひっくり返してクビになったし、サークルにはうまく馴染めず、仮初のコミュニケーションを取るために酒に溺れた。就活にも失敗し、1社目では毎日のように電車を乗り間違えて営業先に辿り着けず、2社目では朝起きられずに重役出勤を繰り返し、3社目ではとうとう会社で仕事ができなくなって、26歳でフリーランスになった。今は、毎日昼過ぎにのっそりと起きてきて、文字を書いたり、文字を読んだり、カーペットの上で転がりながらNetflixを観るなどして暮らしている。

父は、どのくらいわたしのことを理解っていたのだろう。

デート後に母を実家まで送り届けたあと、「家の鍵がない!」と戻ってきて大捜索した挙句、ジーパンのケツポケットの膨らみに気付いて青ざめる父。私の毎週の習い事にも毎度車を飛ばして向かうほどタイムマネジメントができない父。わたしが黙って会社を辞めてフリーランスになったとき、叱るでも呆れるでもなく「その選択肢があることが羨ましい」と言った父。

わたしたちはたぶん、ひどく似ている。朝起きられないところも、誰とでも仲良くなれるわけじゃないところも、おっちょこちょいなところも、社会で生きるのが上手じゃないところも。そしてそれらは、アメリカでは大きな「欠点」にはならなかった。いい意味で適当で、個性を重んじてくれる環境が、わたしを「ふつう」でいさせてくれていたのだ。わたしはあの広大なアメリカの地で、誰よりも自由だったのだ。

「お父さんは、あんたたちを帰国子女にするために、会社を辞めたのよ」

そんな話を聞いたのは、大学を卒業してからだった。通常の受験よりも優遇される、海外在住経験がある者のみが受験資格を持つ「帰国子女入試」には条件がある。しかし、父が再び帰国の辞令を受けたのは、わたしが高校生のときであった。そこで父は、新卒から勤めていた会社を辞めて、9ヶ月間の無職期間を経て転職をした。受験戦争に巻き込まれず、まともな大学に入れるように。ポンコツでも、学歴を盾にして生き延びられるように。

子どもたち3人は、20代半ばでみんな会社を辞めてしまった。でも、あのとき慶應ボーイが身を削って与えてくれたものは、今でもずっとわたしたちを守りつづけている。

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いしかわゆき(ゆぴ) | ライター・エッセイスト サポートは牛乳ぷりん貯金しましゅ