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記録されなかった声


僕は街外れにある高い塔で、今日も風を待っている。

塔には窓がない。
ただ四方に大きな風孔が開いていて、昼も夜も世界中の風が吹き抜ける。

風は、願いを運んでくる。

——宝くじに当たりますように
——あの人が幸せになりますように
——あいつと彼女が別れますように

人々の願いは実に様々だ。

風は饒舌だ。
笑いながら飛んでくる願いもあれば、泣きながら縋りつくように届く願いもある。

僕の仕事は、その声を拾い集め、天界へ届けるために清書することだった。

願いを、正しい形に整える。

それが「風の記録係」の役目だ。



ある夕暮れ。
今まで感じたことのない風が届いた。

色のない風だった。

冷たいわけでも、暖かいわけでもない。
香りも、重さも、感情すら曖昧で、ただそこに“誰かの気配”だけがある。

僕は耳を澄ます。

けれど、聞こえない。

塔を抜ける風の音に混じって、確かに何かが震えているのに、言葉にならなかった。

自分の心臓の音が邪魔に思えるほど静かで、
拾い集めてきたどんな願いよりも細く、
今にも消えてしまいそうだった。

規則では、「聞き取れない願いは破棄」と決められている。

記録できないものは、存在しないものとして処理される。

けれど僕は、その微かな声をどうしても捨てられなかった。

理由は単純だ。

僕もかつて、風に願いを託したことがある。



記録係になったばかりの頃、僕はアーカイブ室で偶然、自分の願いを見つけた。

「破棄」のラベルが貼られた古い紙束の中に、それは紛れていた。

そこにあったのは願いではなかった。

ただの滲み。
意味を成さないノイズ。
読み取り不能として処理された痕跡。

けれど僕にはわかった。

あれは確かに、あの日の僕だった。

言葉にできないほど苦しかった願い。
純粋すぎて形にならなかった祈り。

この世界では、強く明確な願いだけが届く。

曖昧な痛みや、声にならない孤独は、“ノイズ”として切り捨てられてしまう。

その残酷さを、僕は知っていた。

だから。

今、塔に吹き込んでいるこの微かな震えを、見捨てることができなかった。



僕は禁じられた術を使った。

“逆風の術”。

風を遡り、願いの発生源を辿る方法だ。

本来なら、記録係が使うことは許されていない。

僕は聞き取れなかった声を小瓶へ閉じ込め、塔を降りた。

仕事用の地図を片手に、自分の担当区域——北西三区を歩き始める。

いつもは塔の上から集めるだけだった風を、初めて全身で浴びた。

風が肌を叩く。
草木がざわめく。
遠くで軋む看板の音が鳴る。

世界には、こんなにも多くの“音にならない声”が満ちていたのかと思った。

かつて願いが吹き溜まっていた風の廃駅では、誰にも拾われなかった祈りが、今も埃のように積もっていた。

常に強風が吹き荒れる風切りの丘では、大きな願いばかりが空を支配していた。

——成功したい。
——愛されたい。
——奪いたい。
——勝ちたい。

強い声は、いつだって小さな声をかき消す。

僕は地面に膝をつき、耳を塞いだ。

心の奥に沈むようにして、“それ”を探した。

そして。

北西三区の果て。
地図の端に辿り着いた時、小瓶が淡く光を放った。

そこにあったのは、一本の古木だった。

葉は一枚もなく、
骨のように白い枝を空へ突き出している。

何百年も、たった独りで風を受け続けてきた木だった。

僕は小瓶を取り出し、そっと幹へ翳した。

すると。

聞こえなかった声が、ゆっくり輪郭を持ち始めた。

僕は息を止め、耳を澄ます。

それは、風の音ではなかった。

古木が、長い年月をかけて身を削りながら、
空をなぞる音だった。

乾いた幹が軋み、
枝が擦れ、
誰にも届かないまま空気へ溶けていく微かな震え。

その響きは。

かつて僕が風へ投げ、
誰にも拾われなかったあの夜の願いと、
まったく同じ波形をしていた。

その瞬間。

僕は初めて理解した。

願いになれなかった声も、
言葉にできなかった痛みも、
確かにこの世界に存在していたのだと。



僕は塔へ戻った。

そして古木の声を、“記録”しなかった。

清書もしない。
天界へも送らない。

代わりに、胸の奥へ静かに刻み込んだ。

風の中には、
記号にできないものがある。

誰にも届かない祈り。
言葉にならない孤独。
形になれなかった願い。

けれど。

そういう“ノイズ”の中にこそ、
本当に大切なものが眠っているのかもしれない。

今日も塔には風が吹く。

僕は耳を澄ます。

今度は、聞き逃さないように。

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