記録されなかった声
僕は街外れにある高い塔で、今日も風を待っている。
塔には窓がない。
ただ四方に大きな風孔が開いていて、昼も夜も世界中の風が吹き抜ける。
風は、願いを運んでくる。
——宝くじに当たりますように
——あの人が幸せになりますように
——あいつと彼女が別れますように
人々の願いは実に様々だ。
風は饒舌だ。
笑いながら飛んでくる願いもあれば、泣きながら縋りつくように届く願いもある。
僕の仕事は、その声を拾い集め、天界へ届けるために清書することだった。
願いを、正しい形に整える。
それが「風の記録係」の役目だ。
*
ある夕暮れ。
今まで感じたことのない風が届いた。
色のない風だった。
冷たいわけでも、暖かいわけでもない。
香りも、重さも、感情すら曖昧で、ただそこに“誰かの気配”だけがある。
僕は耳を澄ます。
けれど、聞こえない。
塔を抜ける風の音に混じって、確かに何かが震えているのに、言葉にならなかった。
自分の心臓の音が邪魔に思えるほど静かで、
拾い集めてきたどんな願いよりも細く、
今にも消えてしまいそうだった。
規則では、「聞き取れない願いは破棄」と決められている。
記録できないものは、存在しないものとして処理される。
けれど僕は、その微かな声をどうしても捨てられなかった。
理由は単純だ。
僕もかつて、風に願いを託したことがある。
*
記録係になったばかりの頃、僕はアーカイブ室で偶然、自分の願いを見つけた。
「破棄」のラベルが貼られた古い紙束の中に、それは紛れていた。
そこにあったのは願いではなかった。
ただの滲み。
意味を成さないノイズ。
読み取り不能として処理された痕跡。
けれど僕にはわかった。
あれは確かに、あの日の僕だった。
言葉にできないほど苦しかった願い。
純粋すぎて形にならなかった祈り。
この世界では、強く明確な願いだけが届く。
曖昧な痛みや、声にならない孤独は、“ノイズ”として切り捨てられてしまう。
その残酷さを、僕は知っていた。
だから。
今、塔に吹き込んでいるこの微かな震えを、見捨てることができなかった。
*
僕は禁じられた術を使った。
“逆風の術”。
風を遡り、願いの発生源を辿る方法だ。
本来なら、記録係が使うことは許されていない。
僕は聞き取れなかった声を小瓶へ閉じ込め、塔を降りた。
仕事用の地図を片手に、自分の担当区域——北西三区を歩き始める。
いつもは塔の上から集めるだけだった風を、初めて全身で浴びた。
風が肌を叩く。
草木がざわめく。
遠くで軋む看板の音が鳴る。
世界には、こんなにも多くの“音にならない声”が満ちていたのかと思った。
かつて願いが吹き溜まっていた風の廃駅では、誰にも拾われなかった祈りが、今も埃のように積もっていた。
常に強風が吹き荒れる風切りの丘では、大きな願いばかりが空を支配していた。
——成功したい。
——愛されたい。
——奪いたい。
——勝ちたい。
強い声は、いつだって小さな声をかき消す。
僕は地面に膝をつき、耳を塞いだ。
心の奥に沈むようにして、“それ”を探した。
そして。
北西三区の果て。
地図の端に辿り着いた時、小瓶が淡く光を放った。
そこにあったのは、一本の古木だった。
葉は一枚もなく、
骨のように白い枝を空へ突き出している。
何百年も、たった独りで風を受け続けてきた木だった。
僕は小瓶を取り出し、そっと幹へ翳した。
すると。
聞こえなかった声が、ゆっくり輪郭を持ち始めた。
僕は息を止め、耳を澄ます。
それは、風の音ではなかった。
古木が、長い年月をかけて身を削りながら、
空をなぞる音だった。
乾いた幹が軋み、
枝が擦れ、
誰にも届かないまま空気へ溶けていく微かな震え。
その響きは。
かつて僕が風へ投げ、
誰にも拾われなかったあの夜の願いと、
まったく同じ波形をしていた。
その瞬間。
僕は初めて理解した。
願いになれなかった声も、
言葉にできなかった痛みも、
確かにこの世界に存在していたのだと。
*
僕は塔へ戻った。
そして古木の声を、“記録”しなかった。
清書もしない。
天界へも送らない。
代わりに、胸の奥へ静かに刻み込んだ。
風の中には、
記号にできないものがある。
誰にも届かない祈り。
言葉にならない孤独。
形になれなかった願い。
けれど。
そういう“ノイズ”の中にこそ、
本当に大切なものが眠っているのかもしれない。
今日も塔には風が吹く。
僕は耳を澄ます。
今度は、聞き逃さないように。
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