消えていった夏
ギラギラとした太陽も、耳をふさぎたくなるような蝉の声も、夜空にほどける花火も。
みんな、どこか遠くの出来事みたいに、モノクロームでしか思い出せない。
あの夏の、あの雨のあとから。
*
下校途中、空が急に暗くなった。
「降るね」
誰かがそう言った直後、ぽつり、と肩に冷たいものが落ちてきた。
次の瞬間には、地面を叩く雨音が一斉に強くなって、視界が白く霞んだ。
私は走った。
けれどすぐに諦めて、いつもの公園の東屋に駆け込む。
屋根を叩く雨は、しばらく待てば止むような降り方じゃなかった。
まるで空に穴があいたみたいに、ずっと、同じ強さで降り続いている。
ランドセルがじわじわと湿っていく。
赤いはずなのに、どこかくすんで見えた。
暇を持て余して、ポケットに手を入れる。
指先に、固い感触。
取り出すと、それは十円玉だった。
——そうだ、電話。
公園の端にある緑色の公衆電話が、ぼんやりと雨の向こうに見える。
私はそれを握りしめて、再び雨の中へ飛び出した。
靴の中まで水が入り込んで、ぐちゃぐちゃと音を立てる。
息を切らしながら電話の扉を開け、中に滑り込んだ。
受話器を持つ手が、少し震えていた。
家の番号は、何も見なくても押せる。
——出て。
呼び出し音が、やけに長く感じた。
——出てよ、お母さん。
けれど、何度鳴っても、受話器の向こうは静かなままだった。
ぷつ、と途切れる音だけが残る。
もう一度かける。
でも、結果は同じだった。
十円玉が、戻ってこない音を立てる。
私はしばらくそこに立ち尽くして、それからゆっくりと受話器を戻した。
*
結局、雨の中を走って帰った。
もう濡れるのなんてどうでもよくて、ただ、早く帰りたかった。
家の前に着いたとき、胸の奥が少しだけ軽くなる。
きっと、帰ってきてる。
そう思った。
ドアを開ける。
「ただいま」
返事はなかった。
家の中は、変に静かだった。
時計の音だけがやけに大きく響いている。
リビングも、台所も、母の気配がない。
——そのとき、ふと目に入った。
テーブルの端に、白いレース編み。
編みかけのまま、針が刺さっている。
途中で止まった模様が、不自然に途切れていた。
ほんのさっきまで、そこに誰かがいたみたいに。
でも——もう、続きを編む人はいない。
私はそれに触れることもできず、ただ立ち尽くした。
濡れたランドセルを床に置く。
ぽたぽたと、水滴が落ちる。
赤いはずのそれは、暗く滲んで、もう元の色が分からなかった。
——この家には、もう誰もいない。
なぜか、そう思った。
その日、母は家を出た。
理由も、行き先も、何も知らないまま。
*
それからの夏の記憶は、色を失った。
あの日の雨音だけが、やけにはっきりと残っている。
ポケットの中の十円玉。
濡れたランドセル。
誰も出なかった電話。
そして、あの編みかけのレース。
あの瞬間から、私の中で何かが止まった。
——けれど。
私はいま、あのレースを少しずつ編んでいる。
あの頃、母に教えてもらった記憶を頼りに。
途切れた模様の続きを、指先でなぞるように。
ひと目、ひと目、確かめながら。
きれいに揃わない編み目が、かえって、あの時間の不確かさに似ている。
それでも、糸はつながっている。
どこへ続くのかは、まだ分からない。
けれど私は、編み続けている。
色のない夏の、その先を。
こちらの企画に参加させて頂きました。
