見出し画像

魔法が遅れて届く日


休日、遅めに目を覚まして、軽い朝食をとる。
やり残していた仕事を片付けてから、気分転換に街へ出る。
お気に入りの店で買い物をして、いつものカフェへ。
チョコレートとシャンパンをゆっくり味わいながら、読みかけの小説を開く。
誰にも急かされない、ひとりで過ごす贅沢な時間。

カフェを出ると、街は夕暮れに染まり始めていた。
歩きながらふと思う。
「おひとり様」という言葉も、今ではすっかり自分の居場所のようだ。
何をするのもひとり。
ひとりでいることに、確かな心地よさを感じている。

それなのに――
何気なく空を見上げたとき、胸の奥からこぼれ落ちる、ひとつのため息。

理由も名前も持たない感情。
それはすぐに空気に溶けて、消えてしまったように見えるけれど、
本当は、空がそっと預かっているのかもしれない。
しまい忘れたままの想いが、雲の向こうで静かに漂っている気がした。



地方のある街を、仕事で訪れた日。
季節外れの夕立に降られ、慌てて小さな喫茶店の軒下へ駆け込む。
濡れた肩をハンカチで拭きながら、思わず口をついた。

「困りましたね」

独り言のつもりだったその言葉に、
隣から穏やかな声が返ってくる。

「本当ですね」

驚いて視線を向けると、そこには同じように雨宿りをする男性が立っていた。
一瞬、視線が交わる。
そのわずかな間に、お互いの胸の奥で同じ感覚が走る。

——あっ、今の自分と、どこか似ている。

雨は、まだ止みそうにない。
言葉を探す間もなく、自然に足が動く。

「中でお茶でも」

どちらが誘ったわけでもなく、
ふたりは喫茶店の扉の向こうへと消えていった。



その頃、雲の上では、
ふたりにそっと“出会いの魔法”をかけた天使が、小さくつぶやいていた。

「やっと、僕の魔法に気付いてくれたね」

魔法が遅れて届く日。
それは、気付かぬうちに心を閉じてしまった人にだけ訪れる。

「君たちの時間はね、思っているより、やさしい世界なんだ」

その言葉の通り、
ふたりの世界は、モノクロだった景色に一滴の絵の具が落ちた瞬間のように、
街の音も、空の色も、ゆっくりと息を吹き返していく。

空にしまい忘れたものが、
静かに手元へ戻ってくる、その始まりの午後だった。


***

こちらに参加させて頂きました。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集