暮らしの時間を編む
暮らしの中に居場所をつくる
ミシンはときどき使うけれど、裁縫が上手なわけではない。
お気に入りの布を、わが家に馴染む形にする。
そんな小さな満足のために、静かに手を動かす。
昭和ビーズの作品をたくさん作っていたら「売ってみたら?」と言われたことがある。
けれど、人に見せるとなると、いっきに抜け殻のようになる。
私がしていることは、単に作品を作ることではなく、暮らしの中に居場所をつくることなのだと思う。
ビーズを通したり、縫う時間そのものが好きだった。
その静寂な時間には、自分が自分に戻っていくような感覚があった。
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意図して集めたわけではないのに、
なぜか、暮らしの中にたまっていくものがある。
文庫本に挟まっている栞。
包装紙やシール。
アスパラなど野菜を留めていたカラフルなゴム。
ひとつだけなら手放してしまうものも、いくつも並ぶと捨てられなくなる。
眺めていると、そのときの場所や季節だったりが、ぼんやりと思い出される。
ものを見ているようで、過去の自分を見つめているのかもしれない。
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小さい頃に作った作品を、小学生の息子がときどきそっと見返していることがある。
学校生活で何かに迷ったときなのか、ふと棚から取り出して、しばらく眺めている。
理由は聞いたことがない。
その姿を見ていると、過去の自分に会いにいっているようにも見える。
そこには、言葉にしなくても自分を確かめるような時間があるのかもしれない。
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この頃、よく思う。
意味は、あとから生まれる。
昔やっていた茶道。
いま夢中になっているビーチコーミング。
その間には、器への興味や民藝がある。
当時は別々のものだと思っていた。
けれど振り返ると、川が分かれたり合流したりするように、どこかでずっとつながっていた。
子どもの成長も同じだ。
できるようになったことや、夢中になっていることを思いつくままスマホにメモしていると、あとから「あれとこれがつながっていたんだ」と気づく瞬間がある。
そんな瞬間が心地良い。
いま、毎日雑多に感じていることがある。
こなすだけで精一杯だ。
きっと、まだ意味は、知らなくていい。
ただ、この場所で日々を重ねていく。
揃わない形や、不揃いな時間のまま。
今日もまた、この手元から暮らしを編んでいく。
