ビーチコーミングと、選ぶという感覚
いま、ビーチコーミングにどっぷりと浸かっている。
もともと、海へ行けばつい貝殻を拾ってしまう質(たち)ではあった。けれど、いまの標的は「陶片」と「シーグラス」。ときおり、箸置きのような漂着物に出会えたならそれはもう、震えるほどの宝物になる。

自分なりの「好き」を掬い取ったら、
木箱のなかが、ひとつの世界になった。
のめり込むうちに、本をめくって背景を調べるようになった。
目の前の一片が、江戸時代のものかもしれない。伊万里や有田の欠片かもしれない。
そう知るだけで胸が高鳴り、かつての持ち主に思いを馳せる想像が止まらなくなる。

拾い上げた欠片のルーツを辿る。

私の熱量に、子どもたちは引いているかと思いきや、「お母さん、見つけたよ!」と一緒に砂にまみれてくれるのが、何より心強い。

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砂浜に、吸い寄せられる。
直射日光が強く刺しこむ夏も、荒波で砂浜が削られる冬も、つい足が向いてしまう。
穏やかな干潮時がベストだとわかっている。
それでも、条件が悪くても行かずにはいられない。
砂浜に先客がいないか、遠くから少しハラハラしてしまう。まだ誰の目にも触れていない欠片が残っているだろうかと、ビニール袋を握りしめ、往路は砂浜の外側を、復路は内側をなぞるようにして歩く。
ビーチコーミングをはじめた頃は、目につくものをすべて拾っていた。けれど最近、拾うものが少しずつ研ぎ澄まされてきた。
たとえば、青い模様ひとつとってもそうだ。
明治以降の大量生産で作られた印判の、どこか愛嬌のあるズレや滲み。あるいは、職人が筆で描き切った染付の濃淡。
砂の上に、自分の好みが鮮明に浮かび上がってくる。
砂からのぞく一部からそれらを見極め、手に取る。「心地良さ」を感じるかどうか、自分の心に問いかける。


私が掬い取った、様々な「好き」。

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特に嬉しいのは、家にあるものと同じ柄を見つけたとき。
「あ、集めている網目模様だ」とか、
「家の陶片の“続き”を見つけた」と思う瞬間。
ひとつで魅力を放つ柄もあれば、
いくつかが集まることで、はじめて表情を帯びる柄もある。




ちなみにいま、もっとも心惹かれるのは、細かな「貫入」が走る陶片である。
釉薬の層に閉じ込められた、繊細な亀裂。自然が描いたその不規則な線を見つめていると、意図して作られた模様よりもずっと、深い物語を語りかけてくる気がする。

その細かな線に、しばし見惚れる。
元の姿が、もう見えないもの。
残された痕跡に、強く惹かれる。
不完全だからこそ、いまここにある「欠片」という存在が際立つ。
奥が深い。だから、やめられない。
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本当の醍醐味は、帰宅してからやってくる。
袋をひっくり返し、丁寧に洗い、乾かし、一つひとつを選別する。拾い上げた瞬間よりも、さらに深く柄を見つめる時間。
飾るもの。DIYに使うもの。
引き出しにそっと並べるもの。
分類という小さな儀式を通して、「ああ、私はこれが好きなんだ」と、自分の輪郭をなぞる。
選び抜いた欠片を日常の景色に置く。
それを見るたびに、「これが私の好きな世界だった」と思い出す。
だから、居心地がいい。



ひっそり並び替えるのが日課。
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満足したはずなのに、しばらくするとまた身体の奥が疼きだす。
いま、海にはどんな欠片が並べられているだろうと。
海はいつも、違う配列で欠片を並べてくる。
そこには、コントロールできない偶然がある。
その偶然のなかで、自分の感性を確かめる。
私は、単にモノを拾っているのではない。
海が差し出した無数の断片のなかで、その時の自分に、なぜか強く目に留まるものがある。
いまビーチコーミングにのめり込んでいるのは、砂に向き合っているあいだ、ただ見ることへ戻っていける感覚があるからだ。
それは集めるというより、取捨選択を繰り返すなかで、自分の内側に積み重なってきた感覚の痕跡へ触れている時間に近い。
正解よりも、しっくりくるか。
その感覚を辿っていくと、結局は「どう見るか」という、自分の内側にある基準のようなものへ戻っていく。
▽ 砂浜で陶片を拾うように、かつて置いてきた「私の好き」を、いまひとつずつ拾いなおしています。
