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干潮の時間にだけ、現れるもの

束の間の砂浜で見つけたこと


春になり、待ち焦がれていたビーチコーミング日和が、ついにきた。

といっても、冬のあいだも待ちきれず、何度か海を訪れていた。けれど冬の海は厳しかった。
寒さや潮の巡りだけでなく、風や波も重なって、思うように砂は開かれない。


だから、この日は違った。
暖かく、風も波も穏やかで、干潮も狙ってきた。
しかも大潮。

しかし、着いた瞬間、ふと察した。
すでに誰か先客がいる気配がした。

貝殻や石、シーグラス。目当ては違っても、同じように何かを探している人がいる。
もしかしたら、陶片かもしれない。

けれど、それも含めてのビーチコーミングだと思った。海は自然のもので、出会いもタイミングも、自分では選べない。
干潮のピーク1時間前。そんな状態から始まった。

それでも、ここまで来たからには、今日の機会を逃したくない。
20分おきに、同じ波打ち際をなぞるように歩く。

すると、変化が見えてきた。
ついさっきまで海だった場所が、潮が引くにつれて現れていく。境界線がみるみる動き、新しい砂の顔が次々と現れる。

いつもは、ここは海のなか


その日は、海藻の存在感も強かった。

波に揺られていた海藻が、いつのまにか目の前に現れている。その色やかたちが、どこかいきいきとして見えた。

そういえば、土井善晴先生の「春はワカメが美味しい」という言葉を、ふと思い出した。

陸では草木が芽吹き、桜やモクレンがほころぶ。
そして、海の中にも、ちゃんと春が来ている。
そう感じられたことが、うれしかった。


さらに、現れた砂浜には、次々とイソギンチャクが姿を見せた。子どもと一緒に、触らないように気をつけながら覗き込む。

さっきまで海の中にあったはずのものが、
こちら側の世界に現れてくる。
 
月の引力で潮が動き、その中から、陶片が浮かび上がるように顔を出す。

もはや「先客がいるかどうか」ではなかった。
そこにあったのは、
引力と、砂浜と、浮かび上がる陶片。

そしてその一瞬、その場の一部になっているような感覚だけが残った。

干潮のピークは、まさにそのときだった。
束の間だけ開かれる、宝探しの時間。
普段は出会えない柄が、刻一刻と現れてくる。

濡れることも気にせず、足を踏み込み、手を伸ばす。
冬のあいだ、なかなか出会えなかった。
だからこそ、そのひとつひとつが、強く心に残った。

その中で、思いがけない出会いもあった。

いつか出会いたいと憧れていたおはじきを、その日、ふたつも見つけた。
おはじきなんて、きっとお店に行けばいくらでも買える。でも手の中にあるそれは、なぜか宝物のように思えた。

どう出会ったかで、こんなにも違って見えるのかもしれない。

「お母さん、うれしいの?」
子どもに確かめるようにそう聞かれて、
自分でも少し不思議になりながら、うなずいた。

波の中で見つけた唐子柄が、その日のMVPだった。
(以前、太良町で出会った唐子の針山を思い出す)

割れ方も、完璧だった。蝶の柄も、うれしい。


拾い上げた陶片の砂を落としながら、柄を確かめたくて、岩の上に並べる。
どれもおもしろくて、ずっと見ていられた。

すると、家にある柄の続きを見つけた子どもが、そっと言った。

「ますます、おもしろいね」

その一言に、ふと救われた気がした。
同じものを見ているわけではないのかもしれない。それでも、この世界を同じ目線でなぞろうとしてくれている。


目に留まるものは、そこにあるから見えるのではなかった。
そのときの自分と重なったときに、はじめて見えてくる

だからきっと、同じ海でも、もう前と同じものは見えない。

それでも、また来たくなる。



家に帰ってからも、並べて眺めていた。

砂浜で、家と同じ柄を見つけたとき、
思わずガッツポーズ。
帰ってから、そっと並べて確かめた
集めている「線」のシリーズ。
少しずつ増えていくのが、うれしい。
残された字を手がかりに、想像したり、
調べたりする。そんな時間も楽しみのひとつ。
醤油差しの蓋、沈子、おはじき。
もとは別々の場所にあったものたち
欠片で見ることで、線の美しさが際立つ
可愛い欠片たち。
左の柄は、私には鳥に見える。
そのデザインの確かさに、いつも驚かされる
鳥と花の断片

 

▽ ビーチコーミングの記録はこちら
拾い集めたものたちを、別の記事でも並べています。

▽ 見える瞬間は、条件によって開かれる。
そのときのまなざしで集めたものを、まとめています。

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