壊れた檻(3)
優太はリビングへ行き、ソファに座ってテレビを見ている千恵子に進路志望の用紙を渡した。
「これ、保護者のサインがいる。書いてくれる?」
千恵子は用紙を見つめる。
「ねえ、優太は医学部に行きたい?」
「え?」
優太は心を見透かされたのかと思った。
「なんで?」
「……ふーん」
千恵子は意味ありげな表情をする。
「ここ、座って」
優太に千恵子の隣へ座るよう促した。優太が座ると、千恵子は優太の方へ向き直った。
「あのさ、医学部に行きたかったら、『行きたいよ』って答えるよね。『なんで』って聞くのは、イエスじゃないからでしょ」
「お母さん、鋭いね」
優太は観念したように笑った。
「それなのに、医学部志望って書いてある。どうして?」
「うーん」
優太はどこまで本当のことを言おうかと迷った。「医学部に行きたいわけじゃないけど、第一志望なのは変わりない」と言うこともできるし、「あとで志望校を変えようと思った」と本当のことを言ったっていい。どちらにしろ、千恵子は咎めないだろう。ただ、気になるのは父の耳に入ることだ。今はまだ、言いたくない。
「別に」
千恵子は優太から目を離し、テレビを消した。
「お父さんのことが怖い?」
「いや、別に」
それを聞いて、千恵子は笑う。
「『別に』と『いや、別に』っていうバリエーションがあるんだね」
優太は面倒くさくなり、ため息をついた。
「お母さん、優太が医学部に行かないって決めたのはすごいと思った。だって、これまでずっとお父さんの言うことに従ってきたでしょう。志望校だけじゃないよ。水泳やめたのだって、塾に入ったのだって、塾を変えたのだって、高校選びだって、お父さんが言ったことだった。それでもいやそうじゃなかったから、お母さんは優太のこと、自分の願望があまりない子どもなのかなって思ってた」
「まあ、そうなのかも」
「でも、優里菜ちゃんのことで、初めて自分のやりたいようにしようとした。だから、お母さんすごいと思ったの」
これまで大輔の言いなりだったことを振り返ると、千恵子に「すごい」と言われてもなんだか面白くなかった。
「だから、別の進路を選びたいなら、お父さんにちゃんと言ったほうがいいと思うよ」
優太は黙っている。
「ちょっと考えてみて。お母さん、買い物行ってくる」
千恵子が買い物に出かけると、優太はイライラしながら自分の部屋に戻った。大輔に対してビクビクしているとは思いたくなかった。だが、いずれは言わなくてはならない。大輔に告げることを考えると、恐怖を感じるのがわかった。
ベッドに置いてある優里菜のノートに気がつき、もう一度開いてみる。
昔からアプリを作っていたこと知ってたし、アプリのことを話す時の優太の情熱が好きだよ。だから、エンジニアはすごく合ってると思う! 私、全力で応援するから。
優太はスマホを開き、学校で見たメッセージを再び開いた。
今までは暗記が苦手でしたが、このアプリを使い始めてから暗記するスピードがアップしました。おかげで英検に合格できました!
優太は机に向かい、志望校の欄を書き換えた。
「東京工業大学 情報理工学院」
この用紙に、千恵子ではなく大輔のサインをもらおう。
「ご飯できたよ〜」と呼ばれた優太は、用紙を持ってリビングへ向かう。
食卓には、先ほど帰ってきた大輔が座り、千恵子が皿を並べていた。優太は用紙をポケットに入れ、千恵子を手伝う。
「いただきます」
3人で夕食を食べ始めた。
千恵子が自分を気にしているのがわかる。数ヶ月前に同じようなシチュエーションがあったっけ。その時より、優太は落ち着いていた。
「お父さん。これにサインして欲しいんだ」
ポケットから志望校の書かれた用紙を出して、大輔に渡す。
大輔は黙って見てから、眉間に皺を寄せた。
「これ、どう言うことだ?」
「そのままだよ。第一希望を、東工大に変えたい」
「何言ってるんだ?」
「お父さん、俺、エンジニアになりたいんだ。昔から自分でアプリ作ってきたけど、働くなら医者だと思ってた。なぜか子どもの頃から思い込んでたんだ。でも、本当は、自分でものを作っていきたいってわかった」
大輔は持っていた箸を置く。
「お前は……勉強から逃げたいだけなんじゃないか? 子どもができて一瞬勉強から開放されて、もとに戻りたくないだけだろう。情けないな」
「違う! 俺は昔から……」
優太はテーブルの上で拳を握った。
「正直に言ったらどうだ。大学に行って、遊びたくなったんだろ? 新しい彼女探しから始められるしな」
「この……ふざけるな!」
優太はテーブルに手を置いて立ち上がる。
「怒るってことは図星か?」
優太につられ、大輔も立ち上がった。優太は大輔の腹を目掛けて突っ込み、大輔はそれを避けきれずソファに倒れる。優太は大輔の上に馬乗りになる。
「優里菜を馬鹿にするな」
大輔は優太を見上げながら言う。
「学費を出すのは誰なんだ? お前に、わがまま言う権利なんてあるのか?」
「権利ってなんなんだよ。俺は、医者になる権利しかないの? お父さんの言いなりになって生きるしかないの? 俺はお父さんじゃないんだ。お父さんが自分で医者を目指せばいいじゃないか!」
「お前な、その間の生活費はどうするんだ。無理だろ」
「ほらやっぱり。もし無理じゃなかったら、なりたいんじゃないか!」
「うるさい、黙れ」
力の弱まった優太の腕を振り払い、大輔は体を起こした。
バランスを崩した優太は、そのままうずくまって声をあげて泣く。
「ああーーー」
千恵子は優太に駆け寄ろうとしてためらい、ソファに座ったままの大輔は黙って床を見つめた。
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カンファレンス会場の外では、サルスベリの花びらが風に舞っていた。中には200人ほどの観客が着席し、壇上には「学生アプリコンテスト」の横断幕が張られている。大きく映し出されたスライドの横には、優太が立っていた。
「彼女と、彼女のお腹にいた赤ちゃんの死を通して、交通事故の恐ろしさを知りました。そもそも、事故にあった場所は、住民の間でも危ないと噂されている場所でした。住んでいる人のほうが、危険を知っています。だから、その声を集めるプラットフォームと行政に伝達する仕組みを組み込んだ、お散歩アプリを開発したんです」
観覧席の端には、大輔と千恵子が座っていた。千恵子はほほえみながら、大輔は腕を組み真顔で聞いている。
司会者が言う。
「東京工業大学の早乙女優太さんでした。皆さん盛大な拍手をどうぞ」
会場は大きな拍手に包まれた。
