残る熱【創作】
「志摩さん。……すまない。」
店長の声は、まるで冷めきったスープみたいだった。湯気の落ちた厨房で、由里はエプロンの紐をほどきながら、その言葉を待っていた自分に気づく。
「人件費を、見直さないといけなくて。」
言われずとも、しばらくお店に入っていれば見える。新人も育てなきゃならない時期だろう。今月いっぱいで、という話だった。
それが正しいことくらい、わかっている。
数字、常連の紹介、店長の家庭。皿を洗いながら、ずっと横目で見てきた。
「志摩さんなら、どこでも通用するだろう。」
一番痛い。耳障りのいい励ましのようなその言葉。
「ここじゃなくてもいい人」と言われているみたいだった。
本当は、もう苦しかったのだ。厨房からする、調理器具の擦れる音や火の上がる音。そんなものより、ため息のほうが胸に響いていた。
若い子の失敗を見るたび、焦りのほうが先に立った。自分の料理教室を開く夢も、小さな店でスープを煮る妄想も、何度も浮かんだ。
けれど──。
母に言われた。
「手に職があっても、商売なんて大変よ。安定したところにいなさい。」
恋人にも言われた。
「夢追って疲れるより、俺たちちゃんと生活していこうよ。夜遅いのは、もうやめなよ。」
それは優しさだった。だから頷いた。
「無謀じゃない方」を選んだ。
自分で選んだから、自分の責任だから。そう言って自分に言い聞かせたのも、自分だ。でも、その度に、由里の声はかすれていった。
「……わかりました。」
それだけ言うと、ふとカウンター奥から声がした。
「志摩さん、まかないできてますよ!」
後輩の甲斐だった。この日も、いつも通りの弾む声。
胸が少しだけ痛む。
彼は自分がいなくなることを聞いているのか。
知っていて、憐れんでくれているのか。
いらない、と言いかけた由里に、腹の虫が待ったをかけた。帰って何か作るのも、店によって帰るのも確かに面倒だ。
席について、差し出された皿を見た瞬間、息が止まる。
鶏とじゃがいものクリーム煮。
自分が好きな、こだわりのレシピ。湯気の中で、ふっと食欲をそそる香りのアクセント。最後に、レモンの皮をすりおろしてある。これは、甲斐に何度も教えた「抜け感のための一手間」。
一口。
舌に、明るい酸味と、薄く忍ばせたナツメグ。
柔らかい塩気。
──ちゃんと、できてる。私が作ったものと遜色ない。
「今日の、すごくいいじゃん。塩、最後に足した?」
「はい。志摩さんの言ってた『味を行ったり来たりさせないように』ってやつです。」
その笑顔が眩しかった。自分の手を離れても、味だけは残っている。握るスプーンが食器に触れて、かたっと音をたてた。
ここに私の技術は残った。
でも、居場所はもう、ここにはない。
目の奥が熱くなる。泣くつもりなんてなかったのに。スープを流し込み、ごちそうさま、の音を喉の奥で作っても、口からこぼれるのは吐息だけだった。
裏口を出ると、夜気が頬に刺さった。
料理の匂いがまだコートに残っている。
駅前の雑居ビルの空きテナントのガラス越しに、小さな空間がぼんやり見える。そこに、白いテーブルと小さなコンロ、笑う自分が一瞬浮かんだ。
──「こだわりの『スープだけ』のお店を作りたい」「自分らしさを、料理にして表現したい」──。
いつから、夢を口にすることを「恥ずかしい」と思うようになったのか。
もちろん、理由があって諦めることは、悪いことじゃない。
でも、やろうと決めたことに、もがいて苦しんで立ち向かう自分を、恥じる気持ちは持ちたくなかった。
「……やるって、言ったよね。」
自嘲とも、決意ともつかない声。口にしたとき、もうさっきの自分の幻は消えていた。
風が強く吹いてコートを揺らす。けれど、由里の口の中は、まだ温かい。
手放す選択をしたとき、なかったものがある。経験と、自信。今まで作ってきた料理は、こだわりと知識と技術の結晶だ。
めったに誉めない店長が「どこでも通用する」と言ったのを、信じてみてもいいのかもしれない。
夢に手を伸ばす勇気。失くしたものを、もう一度取り戻せばいいだけだ。
「行こ。」
誰にでもなく言い、足を前へ進める。
熱が静かに、魂にも伝わってゆく。
近くの店からは、鉄板の焼ける匂いがする。
由里は立ち止まらず、新しい厨房の音を思い描いていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。