バスと本【創作】
いま私が開いているのは、大学近くの古本屋で買った本だ。タイトルや雰囲気で手に取ったが、どうやら文学小説らしい。
大抵は立ち読みして、最初の三ページを読んだあと直感で買うか買わないかを決める。相性を把握するのに、それで十分なのか、まったく足りていないのかは未だによく分かっていない。
はじめは、その巧みでやさしい文章の取り回しから、読み心地がよいものになると想像してレジへ運んだ。
しかし、少し読み進めてから違和感を覚えた。
物語に登場する主要人物はふたり。苦悩する主人公と、それを支える恋人。作中で主人公は延々と弱音を吐き、現実を呪い、愚痴をこぼす。それに対して恋人は、異なる意見を持ちながらも追従し、一緒に危険を冒すという最大限の献身を示していた。
それからも関係性の積み上げが語られないまま、ふたりは歩を進めていく。
そこで、違和感が私の中で膨れ上がり、ぱたりと本を閉じた。
いつものバスに揺られながら、私は嘆息した。通学中のこの時間、時間つぶしにと軽い本を持ち歩いているが、先を読む気にはなれなかった。有名作や受賞作であっても、私は物語と呼吸が合わなければ読むのをやめる。
この時間のバスは大抵座れるので、周りが混んでいるか、空いているかはあまり関係ない。ざわつきがあっても、少し揺れても集中できる性質だった。目をつぶると、音や感覚が少し遠くなる。
──私はこの話のどこに、もやもやしたんだろう。
自身へ問いかけ、言語化を試みる。それは私にとって、心の奥底から答えらしきものをつまんで拾い上げるような行為。
おそらく、もやもやの正体は、危険を冒していながらもふたりの関係性が「ずっと安全」であることだった。女々しい主人公は、強く生々しい感情を訴え続ける。その必死さから、もはや作者の声のように聞こえてきていた。そして恋人は、装置だ。作中で主人公を肯定し「いい子いい子」するために配置されているだけ。それが約束されていて裏切りがないまま、閉じた世界で進むからだ。
要するに、書き手の内面独白を役割を分けて語っているに過ぎないように見えた。物語の皮をかぶった自虐風エッセイに、嫌気がさしたのだ。
私は腕を組みながら、次は、帰りに読む本をどうするかについて考えることにした。
* * *
その日の昼からの講義に、数少ない友人は来ていなかった。どうせバイトか飲み会が原因で、今朝起きられなかったんだろう。
講義の前と終わりに、ぽつぽつと会話する程度の関係。それでも彼女とは、会話のテンポが似ていて、笑いどころが同じところが話していて居心地がよかった。
ひとり私は、片手でペンをもてあそびながら講義の席に座っていた。揺れがなくても、静かでも、バスと違ってここの席は妙に落ち着かない。
講義棟が古く、固定椅子が固いからというだけではない。前に立つ講師の方に、主な原因があるように感じていた。
専門的な知識を有し、その分野で有名な論文を著しているのかもしれないが、話しぶりから、興味をもって深入りしたくなるほどの熱意は感じられない。
もちろんシラバスで気になって履修登録をしたのは学生側だ。けれど──「講義前に、この書籍を読んでおくことが望ましい」と書かれていた指定図書は、その講師の著作で、えらく高価だった。
研究の傍ら、適当に授業をこなすだけのような講師も、私はこの二年で往々にして見てきていたのだった。
「では、本日のレポートについては、オンラインシステムから期間内に必ず提出してください。全学のアカウントでログインしていないと適切に結果が反映されませんので──。」
私は、姿勢を変えずに頭を傾けて、凝った首周りをほぐした。
レポートも。期間内に少しくらい遅れてもなんとかなるし、仮にオンラインシステムにログインしなくともメール等で提出可能だ。これも、二年かけて学んだことのひとつだった。
大学教師が言うのは、いつも安全な言葉だった。誰も傷つけない、そして批評もされない言葉。こちらを否定もしない代わり、踏み込みもしない。本当の正解も間違いも与えないことで、自らを守っているような。
そのとき、ふと今朝読んでいた本のことが重なった。結局人間、自分をかわいがるのは誰でも同じなのかもしれない。
友人はこの日、最後まで来なかった。
* * *
外へ出ると、本場の冬よりもわずかに明るい空が迎えてくれた。春が近いことを実感する。
学期の終わりが近付くにつれ、キャンパス内を歩く学生らの雰囲気もどこか軽くなってくる。構内放送では、誰かがアンケートでリクエストした陽気な曲が流れていた。
午後からの講義は、今日は休講。このまま帰ってもいいし、本屋にまた寄ってもいい。どうするか決めきれないまま、ひとり歩いていた。
カフェの前を通ったとき、思い出した。このあたりで、一年のころに声をかけられたこと。
書道かなにかのサークル活動の勧誘だった。単位を取れないとまずいと思い、チラシだけを受け取って、結局見学に行くこともしなかった。
大学生活での私の人間関係は、ずっと薄いままだ。友人はほとんどおらず、同じ学部で顔を合わす講義仲間が何人かいる程度。自分から飛び込んでいかないと、関係性は築けないことは分かっていた。それでも、わずらわしさを増やしたくない気持ちが先に立つし、傷つきたくない本能が邪魔をする。
あのとき、サークル勧誘していたのが男子だったから、反射的に「怖い」と思ってしまった部分があった。今思えば、向こうはそんなこと気にもしていなかったと思う。
バス乗り場までの道を歩くと、全身が少し汗ばんでいた。寒い一日になると嫌だからと、ずっと履いていたけれど。明日からはもう、このタイツじゃなくてもいいのかもしれない。
立ち止まって、本を読んだときの違和感をまた思い出す。
物語に登場する主人公と、その書き手。さっきの講義の講師。そして、自分自身も。
──同じじゃん。やってること。
私も、「自分が安全でいられる場所」からしか語ってない。行き場を失ったもやもやは、結局寄り道を経て、私の中に戻ってきたようだった。
そしてもう一度、その中から掘り起こす。私があの小説を読み始めた、一番最初の印象がどうだったか。
あの作者は、紡ぐ言葉を決して雑には扱っていなかった。自分をよく観察していたし、逃げてごまかそうともしていなかった。私はそこが気に入って、買って読むのを決めたのかもしれない。
私は、本屋に寄るのをやめて、代わりに友人に連絡を入れた。
「今日いなかったけど、なんかあったん。」
それだけメッセージを送ると、もう一度鞄の中の小説の続きを読んでみようと思った。
今度は、こちらから呼吸を合わせにいくつもりで。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。