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冬の海を確かめに【三題噺】

レンタカーを借りたのは、大学の最寄り駅から少し離れた営業所だった。行き先は決めていない。カーナビも入れず、ただエンジン音だけが車内に響いている。

考えごとがしたかったので、ラジオもずっと、消したままだ。冬の午後の空は、どんよりとして雲が低い。フロントガラスの向こう、遠くの景色までどこか灰色がかって見えた。

ただ、ハンドルを切った方向が、海のほうだった。しかし同時に、彼女の言葉を確かめるのにちょうどいい、とも思った。

出費は痛いが、この車は、借りた場所とは違うところで返すつもりでいる。

* * *

最初は、本当に軽い誘いだった。今の事態は、かみ合わせの問題で──引き起こされるべくして、引き起こされたと思う。

大学の先輩に、「みんなで集まってる、楽しい会がある」と言われた。普段から先輩のノリは軽かったし、深い意味は感じなかった。そして俺は、知らないことは、疑う前にまずやってみる性格だった。

その団体は、「生活改善団体」と自称していた。最初の集まりは、実際、楽しかった。年齢も学部も違う人たち数名と笑い、話す時間が作れたし、食事が出た割には、会費も良心的だった。団体の活動紹介の時間は退屈だったが、終始ムードは和やかだった。……少なくとも、その場にいるあいだは。

俺は、合わなければやめればいいだけだ、と思い、入会希望の署名をした。

後輩女子に声をかけたのは、その少しあとだ。授業終わりの廊下で、たまたま会って、ほんの軽い気持ちでチラシを渡した。

「けっこう楽しい集まりだから、もし興味あれば。」

俺は、自分がされて嫌だったことは何もされていない。そう思っていた。後輩への声かけも、完全な善意からだった。……いや、正直に言えば、少し好意を持っていて、あわよくばお近づきになれれば、という下心は完全には否定できない。

だからこそ、俺は車を走らせている。

* * *

夏ごろのことだったと思う。少し離れた海浜公園かどこかに、出かけた帰り。俺は必修ゼミのグループメンバー数名に、何か買っていってやろうと思って、土産物屋に立ち寄った。

まあ、安い土産だった。いちごジャムの乗った、小さいクッキー。焼き色の薄い生地に、赤だけがやけに目立つもの。

正直、こんなのでいいのかな、と一瞬迷った。けれど彼女は、驚くほど素直に喜んだ。迷いなく両手で受け取って「ありがとうございます」と言った。

その笑顔が、可愛かった。

ちょうどそのころグループでは、ゼミの合同発表の準備をしていた。何気ない雑談の中で、誰かが言った。

「人って、どうして海が好きなんだろうね。」

そのとき、ぱっと答えたのが例の彼女だった。

「人がもともと、海の生き物だったからじゃないですか。」

その表情だけが、妙に記憶に残っている。

そういう考え方もあるのか。彼女が言葉を発しなかったら、俺はきっと、質問に対して、説明できそうな答えを用意しかけていたと思う。でも、彼女の言葉の方がよりしっくりくる可能性もある。

そこから、もう一度、海に行く機会を作ろうと思っていた。

* * *

俺がその団体に入団、というか入会してから。

団体の活動は、少しずつかたちを変えていった。脱会した人の家に複数名で声をかけに行く。新しく入ってくれそうな人を、新規入会者に命じて探させる。入会した者は、団体が扱っている商品を買い、レビューを書く。

「協力」し、「経験」し、「学び」を得る。そんな言葉で説明を受けた。集められた学生たちは、もっともらしい理由のもと、その活動に参画していた。

楽しいのは、最初だけだった。ひとつひとつの違和感は小さかったが、徐々に積み重なっていった。団体関係者へ疑問を口にすると、話をそらされた。

周りの空気は、はっきりと重くなっていた。俺を誘った先輩は、いつしか姿を見せなくなった。

そうして俺は、退会を希望した。

家の扉を誰かが叩いたが、居留守を使った。でも、学内の噂で耳にしてしまった。例の後輩が、一度限りだが会合に参加してしまったこと。

団体の会合に初参加したとき、住所と氏名の記載を求められたのを思い出す。団体から離れてから、ようやく俺は彼女に「してしまったこと」を思い出した。

* * *

彼女は、まだ完全には踏み込んでいないかもしれない。けれど、名前も顔も、割れている。

気づいてしまった。

自分が近くにいれば、彼女は断れない。誘ったのが自分だから。自分が「安全」だと思わせたから。

だから、距離を取ることにした。連絡を減らし、会わず、何も説明しない。まったくもって、不誠実なやり方だ。でも、それしかなかった。

レンタカーを借りたのは、その延長。言葉ではなく、行動で、離れるしかなかった。

そのとき、スマホが、ポケットの中で短く震えた。通知には、後輩の名前と、短い文だけが表示されていた。

『最近、忙しそうですね』

俺は画面を開かず、そのまま端末を伏せた。

海が見えてきた。窓を少し開けると、冷たい空気と潮の匂いが車内に混じる。気づけば建物の背は低くなり、看板の数も減っていった。

減速し、道路の脇で車を止めた。他に、走る車もほとんどない。

冬の海は、思っていたよりも静かだった。白く、そして冷たい。その海を見て──俺の身体が、細胞が、どう感じているのかは、よくわからない。

たぶん、確認するにはまだ遠い。

エンジンを切る。車の返却時間を確認する。返す場所は、まだ決めていない。ただ、借りた場所へは戻らない気がしていた。

死にに来たわけじゃない。彼女の言葉を、確かめに来ただけだ。砂のために足元が揺れる。波の音は少しずつ、大きくなっていった。

海はただ、そこにあった。俺は確かに、ここに来た。その狭間で何も言わずに、時間だけが流れていった。



※以下の企画に参加させていただきました。

《今週の三題噺》
1.冬の海
2.レンタカー
3.いちごジャム

ヤスシ さまの記事より引用

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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。