二枚目のハンカチ【せりふ三題噺 / 間欠泉サロン炭酸水】
「しばらく経ったら、また吹き出しますからね。」
先生が言った。
柵の前では、ざわめきながらみんなが向こうの一点を見つめている。その地面の穴からは白い湯気が上がっていた。
誰かが「まだ?」と言い、先生が「もうちょっと」と答えた。
大門は、家でお父さんがたまに飲んでいる炭酸水のことを考えていた。あれは、開ける前に振ると、ふたを取ったときに勢いよく泡が出る。
間欠泉も、どこか似ている。
そう思っていたら、突然、水が高く噴き上がった。
「うわー!」
みんなが声を上げて、柵の前の人だかりが波をうった。先生も笑っている。
大門は、吹きあがる水を見て、やっぱり炭酸水みたいだと思った。少し前に、背伸びして向こうを見つめている理沙の姿があった。
* * *
休み時間だった。
理沙は、鼻血が出やすい体質だった。食べるものなど彼女なりに気をつけてはいたものの、小学校に上がってからもそれは変わらなかった。
理沙が教室の後ろで友達と話していると、鼻の奥が急に熱くなった。
「あ……。」
「どうしたの。」
たらりと鼻の下をつたう嫌な感覚に、慌てて手で押さえる。手のひらを見るまでもなく、出ているのがわかった。
「ちょっと待って。」
友達がティッシュを取りに行こうとしたとき、近くにいた大門が先にハンカチを出した。
「これ使えば。」
あまりにも早かったので、理沙は一瞬、何を渡されたのかわからなかった。
「あ、ありがとう。」
受け取った。
白っぽい、きれいなハンカチだった。端に、小さな刺繍が入っている大人っぽいデザイン。
鼻を押さえる。もちろん、血がついた。思ったより、ずっと赤かった。でも、おかげで服も床も汚さなくて済んだ。
「ごめん、きれいなハンカチなのに。」
「いいよ。」
大門はそう言った。昔からの付き合いだから、彼は理沙の鼻血の癖も覚えていた。理沙とは、目を合わさなかった。
理沙はハンカチと手で顔を半分隠しながら、ティッシュを鼻に詰めた姿を見られなくてよかった、と思った。
それでも、恥ずかしいことに変わりはない。
「洗って返すね。」
「うん。」
それだけだった。大門は別の友達に呼ばれて、行ってしまった。そのあと理沙の友達が、一緒に医務室に行こうと声をかけてくれた。
血のついたハンカチは、理沙の手の中に残された。
* * *
家に帰って、お母さんにハンカチを見せた。あのあと水で濡らして、指で何度か揉んでみたけれど、血の染みはきれいには取れなかった。
「あら、また?」
「汚しちゃって……洗濯機に入れていい?」
「誰の?」
「大門くん。」
「ああ。」
お母さんは、ハンカチを見てなにか考えているようだった。
「これ、きれいなやつだった?」
「うん。」
「じゃあ、ちゃんと洗って返さないとね。」
ハンカチを広げながら、お母さんが言った。
「大門くんね、ハンカチ二種類持ってるんだって。」
「二種類?」
「普段使うのと、いざというときのと。忘れたときにも使えるように持たせてる……って。大門くんママが言ってた。」
理沙が幼稚園のときから、彼女のお母さんと大門のお母さんは仲が良かった。ママ同士で、習字やコーラスなんかの習い事も一緒に通っている。そのときに、子どもの話をするのだろう。
「お母さん、今日はコーラス?」
「ううん、明日。今日はヘアサロン予約してるけど……まだ時間あるから。」
「ふうん。」
「これ、刺繍あるね。」
お母さんは、指で刺繍を少し撫でた。
「普通に洗うと傷むかもしれないね、丁寧洗いにしようか。」
洗濯機の表示を見て、少し考えていた。
「こっちかな。」
お母さんが選んだのは、いつもより時間のかかるコースだった。洗濯機がお母さんの指の動きに合わせて「ピッ、ピッ」とリズムを刻む。理沙は、お米を洗うことはできても、洗濯機を回したことはない。
洗濯機の中でゆっくりと回り始めたハンカチを目で追いかける。白い布が、水の中で何度もひっくり返っていた。
それから理沙は、自分の部屋に戻った。ベッドの枕に顔をうずめる前に、鼻の下を指でなぞる。しっかりと顔を洗っても、そこに乾いた血が残っていないかをつい気にしてしまう。
「わたし、大門くんと結婚する!」
幼稚園のころ、自分がそう言ったことを突然思い出した。砂場でおままごとをしているときだったと思う。たぶんそばに、理沙と大門のお母さんもいた。
どうしてそんなことを言ったのかは、覚えていない。
大門くんも何か言っていた気がする。
たぶん、いいよって。結婚するって。
子どものころは、そういうものだった。大人になったら誰と結婚するかなんて、遊びの続きみたいなもの。
おままごとで出す泥団子が食べられないのと同じで、そのとき生まれた感情も、どこか現実のものじゃないような気がしていた。
小学校に上がってからは、そんな話をしなくなった。
大門くんとは、今でもたまに話す。席が近いときとか、係が一緒のときとか。誰かに聞かれて、幼馴染だよって話したこともあったと思う。
それくらいだった。
* * *
翌日、洗ってもらったハンカチを持って学校へ行った。
「あの、これ。」
理沙は大門に、きれいに畳んだそれを渡した。
「ああ、ありがとう。」
そう言って、受け取る。差し出されたあのときよりも、手の動きはゆっくりだった。理沙は一瞬迷ったけれど、自分でアイロンをかけたことは口にしなかった。
大門はそのハンカチを少し見てから、鼻先に近づけた。
「香水つけてる?」
「え?」
「なんか匂いする。」
理沙は、自分の服を嗅いだ。変な匂いはしない。遅れて、洗濯機のそばにあったピンクのパッケージを思い出した。お母さんの気に入っている、柔軟剤。
「たぶん、柔軟剤かも。」
「ふうん。」
大門はハンカチをポケットに入れた。理沙はそのまま友達のところへ戻った。
少しして、昨日の洗濯機の中で、ハンカチが回っていたのを思い出した。それから、幼稚園のころのことも。
大門くんと結婚する。
自分の声まで、なんとなく思い出せた。砂場で、少しお互い頬が汚れていて。そばには、おままごとに使ったおもちゃに、バケツとシャベルも転がっていた。
変なの、と思った。もうそんなこと、ずっと忘れていたのに。
このまえ遠足で見た間欠泉も、そうだった。
最初は何も出ていなかった。
みんなで待っていて。先生がもうちょっとだって言って。それでも、しばらく何も起きなくて……。
そしたら突然、空に向かって水が出た。勢いよく、飛び出すみたいに。
びっくりして、水がかかるんじゃないかと思って少し後ろを向いた。あのとき確か、大門くんが斜め後ろにいて。水の方をまっすぐ見つめていた。
どうしてか理沙は、その顔を鮮明に覚えていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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