空いたままの席【お題投稿というお題】
その依頼が来たとき、正直、少しだけ嬉しかった。
「お題投稿企画の主催をお願いできませんか?」
画面に浮かぶその一文を、私は二度、いや三度読んだ。断る理由は、すぐには見つからなかった。むしろ、承諾する理由の方が揃っていた。
参加者が集まる。場がにぎわう。感謝もされるだろう。過去の文章を読んでもらい、適任だと思われたのならば光栄だ。
それでも、返事はすぐに書けなかった。
──企画を主催するということは、場を主宰することでもある。
主宰、という言葉の響きが、どうにも重かった。
──やること自体はシンプルだ。テーマを決めて、告知する。集まった文章を読み、形式を整え、期限を区切る。趣向次第では順位や代表作を決めるだろう。誰かの文章に「良いですね」と言い、別の誰かには言わない。それだけのことだ。
それだけのこと、なのに……。
私はウインドウを複数開き、過去の企画をいくつかたどってみた。参加したこともあるし、見ていただけのこともある。主催者は忙しそうだった。感謝されていた。企画を通じての人脈も増えていた。けれどどうしても、その人自身の紡ぐ言葉の量は減っていった。
代わりに増えたのは、感想と告知と報告だった。
──参加人数、新記録達成しました。
──今回は力作ぞろいでした。
──選ぶのが本当に難しかったです。
それらはどれも正しく、誠実で、場を取り回すために必要な言葉だった。けれど、そのどれにも「書きたい」という熱意は含まれていなかった。
気づいていた。主宰の席に座った瞬間、私は「書く側」ではなくなる。「見る側」「選ぶ側」「分かっている側」になる。知らないうちに、自分の中に評価軸が居座る。
それは、次にきっと覗き込む。私のデスクの後ろに黒い影となって立ち、心の中の、下書きしていない文章にまでその視線は及ぶ。
──これは企画向きだろうか。
──これは他人ならどう読むだろうか。
──自分が主宰だったら、これを選ぶだろうか。
これは好き。これは苦手。これは分かりづらい。そうした直感的な感触には少し暇をやって、変に世間に合わせた、歪んだよそ行きの評価を物差しにして測りなおす。
そんな雑音が入り込んだ文章を、一度だって誇れたことがあっただろうか?
だから私は、「できる側」に立ちたくなかった。公平な立場で、参加者と並ぶ位置にいるには──自分も毎度、企画に参加しなければならない。しかしそれは、仮に上手く書けたとしても、参加者から向けられるのは、「お題をすでに知っているから」「テーマを自分で選んだから」という、色眼鏡つきの評価だ。
私は、選ぶ人ではなく、選ばれないかもしれない人でいたかった。
これはいまいちかもな、という表現に高評価がついたり。これは力作が書けたぞ、という内容にひとつも反応が得られなかったり。
書くことは私にとって、いつも不安定な行為だった。同時に立ちのぼる感情を色分けし、自問自答してはそこに理由付けをし、整合性を保つかたちで言葉に置き換える。揺らぎの中で、必死に自分を手繰り寄せて書いていた。
上手く書けず、下書き画面を開いては閉じ、他の人の投稿を見てはまた書きに戻る。そんな、誰にも説明をしなくてもすむ位置にいたかった。
主宰という立場は、そのすべてを奪わないまでも、創作を少しずつ摩耗させる。義務が熱を冷まし、役割が衝動を削る。そのことを、私はもう知っていた。
知らなければ、迷うまい。参加者を上から批評するのも、色の薄い作品をどうにか誉めそやすのも。一度その立場に身をやつしてしまえば、それはきっと癖となり、いずれ日常となるだろう。
画面に戻ると、依頼文はまだそこにあった。
断れば、たぶん少し残念がられる。もったいない、と声が聞こえる気がする。周りからも、自分からも。
私は、短く返事を書いた。
「お声がけありがとうございます。ただ今回は、お引き受けできません。」
詳細は書かなかった。書けば、説明になる。思想になる。そして……正しさの話になる。それはもう、創作ではない。
主張があるなら、物語にして紡ぐ。そう決めていた。
送信して、画面を閉じる。
企画には、競うための文章も、向き合うための文章も、参加するためだけの文章も集う。私は、自分の好きな文章をそこに置きたい。
その夜、私は久しぶりに、何の役割も持たない文章を書いた。誰に選ばれるかも、何に使われるかも考えない、自分のためだけの文章だった。
地に足のつかない、寝間着で空を飛ぶような、自由な言の葉を並べた。文法や構成が大味でもよかった。私は大切なものを、失くしたくなかったのかもしれない。
主宰席は、空いたままだ。
でも、私の机は、まだここにある。背中にも、書く文章にも。
ただ自分だけが、そこにいる。
※以下の企画に参加させていただきました。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。