傘と声【創作】
「おねーちゃん、傘忘れてるよ。」
姉に傘を手渡しながら女の子は言った。
「ありがとう。あ、今日は引っ越しの荷物を少しはまとめておいてよ。」
「わかってるよ。」
でもまだ来月なのに、と思いつつ、言わずに女の子は濡れた傘立てを見つめる。焦っているらしい姉をわざわざ怒らせることもない。
また、今年も梅雨がやってきた。
雨の音は嫌いではないものの、彼女にとっては少し心のざわつく季節だった。
* * *
女の子には、小さいころから人には言えない秘密がある。
誰かの傘に触れると、その人の今の心の声が、かすかに伝わってくるのだ。
喜んでいる子の傘からは軽やかに弾むように音が響いてくるし、怒っている子の傘はざらついた音を立てる。そう、雨粒の響きみたいに。
けれど、そんなことを人に話したら「おかしな子」だと笑われるに決まっている。
だから彼女はずっと胸の奥にしまっていた。
* * *
学校の帰り道、よく一緒になる子がいる。
同じ小学校に通う、年下で、まだ声も幼い男の子。けれど、顔を合わせれば自然に並んで歩くくらいには気心が知れていた。
クラスで流行っているゲームやキャラクターの話、授業や宿題の話、先生や友達の話……。話すのは、そんな他愛もないことばかり。
女の子の姉と男の子の兄が同じクラスという共通点もあってか、不思議と会話は途切れなかった。
ところが、ある日を境に、その男の子が妙によそよそしくなった。
声をかけても返事は短く、目を合わせようとすらしない。
女の子は理由が気になり、心配したが、問いただす勇気は出ない。
自分が気に障ることをしたのだろうか。それとも、お家でなにかあったんだろうか。
その日も朝からあいにくの雨模様。
下校のとき、彼の傘の端に指先をそっと触れてみた。
──深い、深い悲しみ。
言葉にならないけれど、傘を通じて胸の奥に沈む重みが伝わってくる。
まるで雨雲の底に閉じ込められたような、暗い響き。
女の子は口に出さなかった。
「どうしたの?」と聞くことも、「何をそんなに悲しんでいるの?」と迫ることも。
ただ、彼が抱えているものを、黙って知ってしまった。
* * *
次の日、教室でプリント整理の時間に、先生がふと「夏休み前に住所録を更新するからね」と言った。それをきっかけに何人かの子が、誰々が引っ越すかも、とか隣のクラスの誰々が転校するらしい、とか口々に話し始めた。
そういえば、前にぽろっと「来月引っ越すんだ」と話したとき、
近くにいた彼がふと黙り込んだのを思い出す。
たしかに、その日から、様子が少しずつ変わったような気がする。
(もしかして、あれを聞いて……。)
そう思った瞬間、昨日傘から伝わってきた悲しみの理由に、ふと心当たりが浮かんだ。
* * *
その日、帰り道で彼の横にそっと歩み寄る。
小雨がまだ降っていて、彼は一人で傘を差していた。
「ねえ。」
女の子は一呼吸置いてから、少し照れくさそうに言った。
「傘、忘れちゃった。入れてくれる?」
彼は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐに小さく笑って傘を差し出した。
彼の傘の中に入ると、ふわりと空気が和らぐ。
「引っ越すっていってもね、学校は変わらないんだよ。」
女の子は、まるで何でもないように続けた。
「家がちょっと遠くなるだけで、またすぐ会えるし。」
彼はじっと前を見たまま、小さくうなずいた。
その横顔が、ほんの少し照れているように見えた。
傘の骨に触れた指先から、軽やかな音が伝わってくる。
以前のような重たい響きは、もう感じられなかった。
二人はしばらく、無言のまま並んで歩いた。
傘の内側で雨粒がやさしく弾ける音が響く。
その音にまぎれて、女の子の胸の奥に、じんわりとした熱が広がっていく。
でもそれが、彼の傘を通じて伝わってきたものなのか、それとも、自分の心が初めて生んだものなのか。
女の子には、まだ分からなかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。