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ある絵描きの話【創作】

何故描くのか、何を捉え、どういう想いで描くのか。
問われても、老人には答える術がありませんでした。

昔から人間が嫌いでした。

自分に関係の無い話に耳を傾け、相槌を打ち、愛想笑いを浮かべることの出来ぬ者に、人付き合いなど出来る道理もありません。

老人は自ら人の出入りの少ない山の奥へ移り住み、そこに小屋を建てて生活していました。

定期的に山を降りて、必要最低限の物資の補給は行いましたが、なるべく人と関わらないように生きていました。

山の麓にある街の人々は老人のことをしばしば話題にあげ、絵ばかり描いておかしな奴だ、山にはわざわざ近づかぬ方が良いと、皆一様に口を揃えました。

人がやってこないことは、老人にとっても都合のいい話でした。

老人は、暇があれば絵を描いていました。

空気や水が綺麗で、動物達の多く住むこの山は、絵を描く老人を退屈させませんでした。

四季に応じて見せる様々な顔。
朝日や夕日、星空に月夜。
晴れの日や雨の日にも、それぞれ違った様子で老人を迎えてくれました。

この世界のありとあらゆる自然が、全てこの山に集まってきているかのようでした。

老人の住む小屋からは、一本の大きな木が立っているのが見えました。
簡単な丸太の橋を渡ってしばらく進むと、目の前まで近づくことが出来ます。

傍へ行ったことは何度もありましたが、この大木を題材に老人が絵を描きあげたことは一度もありませんでした。

何度か描こうとしたことはありました。しかし、不思議なことに何故か最後まで仕上げることが出来なかったのです。

老人は、自分の技量で描くにはこの木は立派過ぎる。もう少し画力を磨いて、いつかそこで描く絵を完成させたいと思うようになりました。

* * *

ある時、珍しいことに山にひとりの娘が訪ねてきました。それも、老人の噂を聞いてわざわざやってきたといいます。

話をするのも億劫だった老人ですが、一方的に娘の方から話し始めたので聞かざるを得ませんでした。

言うには、老人の下で絵を描く勉強がしたいとのことでした。

老人は驚きましたが、娘の言い分を聞くつもりは毛頭ありません。

ただ描いているというだけで、教えることなど出来るものではない。突っ撥ねましたが、娘はしつこく食い下がりました。

彼らの居たこの国、この時代では、絵を描くということを生業にするにはとても厳しいものがありました。

老人はあくまで、先祖代々受け継がれてきた土地や財産を守りながら、若い頃に築いた備蓄をやりくりして、余力で絵を描いて過ごしているにすぎません。

絵を売ったこともなければ、誰かにそれを見せたことすらありませんでした。

それを、若い娘が自分から絵を学びたいなどと、老人にすれば半ばふざけているようにしか聞こえなかったのです。

娘はなおも話を続けました。

絵を描くのが好きなこと。いずれは大きな街へ行って、子供たちに絵を描く楽しさを教えてあげたいこと。たとえ儲からなくても、絵を描いて生きていきたいことなどを老人に切々と訴えました。

最終的に、老人が態度を変えないのを見て取った娘は言いました。

ときどきこの辺りへ来て、老人が絵を描く隣で自分も絵を描きたい、ただそれだけでいいのでと言い残し、老人に返事をさせる間もなくその日は帰っていきました。

面倒に思った老人でしたが、特に話をすることもなく、近くで勝手に絵を描いているだけなら気にしなければ問題ないだろうとしぶしぶ心の中で納得しました。

* * *

その後、彼女は時折やってきては老人と並んで絵を描くようになりました。

娘は老人に話しかけこそしませんでしたが、たまに老人の絵を描く様子を気に掛けたり、出来上がっていく様子を観察したりしていました。

老人は気付いていながら、別段止めさせようとも、話をしようとも思わず、ただ自分の絵を完成させることだけを考えて筆を動かしました。

そうして近くで作業をしているうち、老人にしても彼女がどのような絵を描くのか気になってきました。

もしかすると、娘は自分よりもいい絵を描くかもしれない。そうでなくとも、あの大木を描ききるヒントが見出せるかもしれない。

とは言え無断で相手の絵を覗き見るような無作法が出来るはずもありません。

どうしたものかと考えあぐねていると、その様子を察してか娘の方から出来を見てほしいと描きかけの絵を差し出してきました。

他人と、自分の絵を比べるということが今まで無かった老人にとって、その刺激は大きく、初めて彼女の絵を見たときの衝撃は生涯忘れることのないものになりました。

技量はまだまだ拙いものがありましたが、その絵は表現方法や想像力が豊かで、雰囲気を伝える描写が見事な一枚でした。

これまで老人は、ただ実物を見て、角度や色合いを忠実に描くことを意識してきました。

しかし娘の活き活きとした絵を見て、この先彼女がどのように絵を描いていくのかに興味を持ち、少しずつ娘に描き方のアドバイスをしてやるようになっていきました。

筆の選択や色の重ね方。
描く順番やアングルの捉え方。

言葉を交わすのは、絵のことばかりで、二人はお互いの個人的な話はあまりしませんでした。

でも、老人もそれ以上関わろうとも思っていませんでした。

彼女はあくまで勉強のためにここに来ているのであり、自分は山以外での暮らしを捨てた人間だと割り切っていたのです。

娘は老人との会話の中でこう言ったことがありました。

絵を描けば、描いただけ世界が広がる気がするのだと。

現実の世界が広く感じるのだとか、描くことによって自分の感性が豊かになるのだといった例え話ではありません。

彼女自身が絵を描くたび、今の現実世界と微妙に違う、別の世界がその絵の中に生まれて広がってゆく……。

そんなことを想像して彼女は絵を描いていると言うのでした。

絵の中の世界では、例えば川の色が違っていたり、見たことのない花が咲いていたり。

住んでいる動物が違っていたり、聞いたことのない鳥の声が聞こえてきたり。

描いた数だけ命が生まれて、それぞれに違う時間が流れているのなら、娘は魔法でも使えるに違いないと老人は皮肉っぽく笑ってみせました。

彼自身、その笑顔を他人の前で見せるのは随分久しぶりのように感じていました。

* * *

娘が来るようになって半年も経つと、老人から見ても立派と思えるほど、彼女の絵の技術は上達しました。独特の視点で描き、題材を選んだときの彼女の感動や、どういう想いで筆を取ったかが伝わってきそうな、印象的な絵を仕上げられるようになりました。

もう教えることもない、わざわざ毎日のようにこの山に足を運ばなくとも、絵はどこでだって描くことが出来る。

違った場所で、違ったものや違った風景に触れて、自分の目指す絵描きになればいいと娘に助言を与えました。もちろん、ただ好きだからと絵だけを描いて生きてゆくことはとても難しいだろうとも言葉を添えました。娘の行く末を案じての、彼なりの心遣いでした。
 
娘は、もう一枚、最後の絵を完成させればそれでここを卒業するのでと老人に伝えました。

その最後の絵が、何を題材に描かれる予定かは老人も聞かされてはいませんでした。

娘は、その絵に関しては老人の助言などを許さず、ひとりで完成させた後に見せると言って聞かなかったのでした。

別にそれでも構わないと思っていましたが、老人にはひとつ思い当たることがありました。もしかすると、あの大木を題材にしているのかもしれない──。

以前、彼は娘と、一度も描いたことの無い木の話をしたことがありました。

娘も例の木を描くことに一度挑戦しましたが、同じようにうまく描ききることが出来なかったのです。

娘は言っていました。神秘的で美しいこの木からは、もしかしたらどこか別の世界への道が続いているのかもしれない。あまりにも神々しすぎて絵の中に収めることが出来ないとその時は真剣に唸っていました。

馬鹿なことを、とその時は聞き流していましたが、これまで彼女の絵を見てきて、彼女の考え方に触れてきた老人は、今では娘が単なる冗談で言っていたとも思えない、と考えるようになっていました。

かつての老人の、ものや人、そして自分の絵に対する考え方。それに対して、描いた絵の数だけ世界が広がっていくという娘の捉え方は、老人のものよりもずっと壮大で、この世界のありとあらゆる全てに視野を向けていたのですから。

そうなると、非現実的だと思いながらも、どこかに説得力を感じていたのかもしれません。世界を作る彼女の魔法は、老人の中で本物になりつつあったのです。

* * *

最後の絵は、完成を間近に迎えていました。

娘からつい先日、そう聞かされていたからです。

そして、おそらく絵が仕上がるだろうと思われた日、老人は小屋で待っていましたが、その日娘が現れることはありませんでした。

このところ毎日のように来ていた娘が来ないのはどうしたことかと思った老人は、とうとうしびれを切らして小屋を出ました。

向かったのは、もちろんあの大木のところでした。

近づいてみましたが、それらしき人影は見当たらず、辺りも暗くなりかけていました。仰ぎ見てみても、木はただただその存在感を一帯に見せつけているだけで、別段神秘的な雰囲気も幻想的な印象も感じることは出来ませんでした。

娘はいなかった。自分の思い違いだったのかもしれないと帰ろうとした老人は、地面に白い布が掛けられた一枚の絵のようなものが視界に入ってきたのに気が付きました。

丸太橋の脇に、その絵とともに見慣れた画材が落ちていました。

老人は急いで橋の下を覗き込みました。

川が流れていました。そこは流れが速いわけでもなく、瀬が深くなっているわけでもありませんでした。橋から、それほどの高さがあるようにも見えませんでした。

けれど、娘は老人の視線の先に、ぐったりと倒れていました。

老人は、久しぶりに山を降りました。

背中に娘を背負い、街の医者のもとへ連れて行きました。

深夜でしたが、老人が頭を下げて必死に頼み込む姿を見た医者は、娘の介抱にあたってくれました。老人も寝ずに付き添い、出来る限りの力添えをしました。

全身を強く打ち、身体も冷えきってしまっていた娘は、目を覚ます見込みは薄そうだと医者は老人に言いました。

それでも老人は、眠ったままの娘のもとを、毎日見舞いに訪れました。

また、娘のために何かしてやれることがないか街をかけずり回っていました。その時、彼女自身の話を街の人間から聞かされます。

身寄りの無い彼女は、好きな絵を描くための絵の具や画材を買うために、仕事をしながらも生活を切り詰めて絵を頑張っていたということでした。

たった一人で、誰にも頼ることなく真っ直ぐ夢に向かっていた娘。

話を聞いた老人はひたむきだった彼女の横顔を思い描きながら、会話の中で、絵を描くこと以外の話題が無かったことも同じように思い出していました。そこで、次に機会があれば別の話をしてもいいとも思いました。

しかし、とうとうその機会は永遠に訪れることは無かったのです。

* * *

老人は小屋に戻り、うなだれながら今度こそもう人と関わりあうことは無いだろうと思いました。

亡くなった人間のことで悲しむことにも、自分を責めることにも疲れきってしまい、絵を描いてもちっとも気が紛れませんでした。この頃は年のせいか、体力が落ちてきているようにも思えました。

そんなある日、老人の小屋に再び来客がありました。

彼は娘が訪ねてきたよりもずっと億劫に思いながら、相手の男を追い返そうとしました。

しかし、その男は絵に関する話が聞きたいと言い、老人の言葉を遮ってまくしたてました。仕方なく老人が自分の描いた絵を何枚か見せると、なにやらぶつぶつと言いながら考え込んだ後、礼を言って帰っていきました。

また別の日に、前とは違う別の男が訪れました。その後もある時は女性が、ある時は子供がやってきました。様々な人間が訪れましたが、彼らは全員、老人の絵を見に来たと言います。

こんなことがあるものだろうか。老人は不思議がりました。絵を描くことなど、変わり者のすることだと、麓の街では馬鹿にされているものとばかり思っていました。

そうしているうち、再びはじめに訪れた男が顔を見せました。

なんでも、彼は絵画の分野では少々顔のきく資産家で、老人の描いた絵を展示したいので買い取りたいとのことです。前回は噂を聞いて下見に来たのだと打ち明けました。

男は、老人の絵を個人のものにしておくのではなく、皆の目に触れるところに置いておきたいという申し出をしにやってきたのでした。

老人は、それを聞いてしばらく黙って考えていましたが、少し経った後にこう言いました。

絵画展をやるのもいいが、各地で講師を募って絵画教室を開くことは出来ないかと。

──絵を描く楽しさを、教えてあげたい──。

老人はここでも娘の言葉を思い出していました。

もし実現が可能なら、絵は無料で譲ってもいい、むしろ費用をいくらか負担してもいいくらいだと言葉を続けました。

難しいですがやってみましょうと男は快く承諾してくれました。

老人はさらに言いました。次に男が来るまでに必ず仕上げるので、次に描く自分の絵をその絵画教室に飾るよう取り計らってほしいと。

その了承を得たところで、男は帰っていきました。

老人は体力的にも気力的にも限界が近づいていました。筆を取るのはおそらくこれが最後になるだろうと、内心思っていました。

絵を描きにやってきたのは例の大木のところでした。

しっかり木を見据えて、その空間を捉えて筆を走らせます。

──この木からどこか別の世界への道が続いている──

娘のかつての言葉が、老人の頭の中を駆け巡っていました。

時間を掛けて徐々に仕上がっていく老人の絵には目の前の大木は描かれておらず、別のものが空白を少しずつ埋めてゆきました。

老人は休まず描き続け、ついに最後の絵が完成しました。

ふらつきながらも小屋に戻り、老人は自身の最後の絵を机の上に置きました。そして、もう一枚。かつて娘の描いた、白い布が掛けられたままの最後の絵。ずっとしまっておいたそれを引っ張り出してきて、同じように机の上の、老人の絵に重ねて置きました。

老人はここで力尽き、深い、深い眠りにつきました。

* * *

それからずっと先のこと。

遠い街の、ある場所で、絵画教室が開かれました。

講師がようやく決まって、生徒である十数名の子供達も集まりました。

その教室の壁に、二枚の絵が飾られました。

一枚は、老人ともうひとり、孫ほど年の離れた娘が一緒に描かれていました。街で並んで歩いている絵で、ふたりとも幸せそうな笑顔を浮かべていました。

もう一枚は、女性が前に立って、たくさんの子供達に囲まれて絵を描いている絵でした。その女性の顔は活き活きとしていて、熱心な絵への想いが伝わってくるかのようでした。

作品のタイトルも画家の名前も書かれていないその絵は、多くの人々の目に触れました。しかし──その絵が何故描かれたのか、何を捉え、何を想い描かれたのか──。

その質問に、誰か答えられる者はいたのでしょうか。

昔々の、ある絵描きの物語です──。


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