跳ねないうさぎ【創作】
この繁華街には、昔からうさぎがいる。
うさぎといっても、本物ではない。うさぎの耳を模したカチューシャなどをつけた、夜の店のプロモーションスタッフと思われる。
専用の衣装まで身に着けて仕事熱心だな、といつも思う。自分は酒にも夜の店にも興味がない。タバコもやらない。うさぎのいる店は、いわゆる「コンセプトカフェ」というやつなのだろうか。若い頃なら興味をもてたのだろうか。
だが夜の光の中での、酔っ払いの歌声や店の呼び込みは、祭りばやしのようで気持ちが高揚する。
「お兄さん! 一杯だけでも!」
「お姉さん、今日もかわいいね!」
熱気にあふれたこの空間に、この街の息づかいを感じていた。駅までの最短の道のりからは一本外れるが、仕事帰りにこの雰囲気を味わうのは、自分にとって数少ない趣味のようなものだった。
* * *
実は我が家にも、うさぎがいる。
「ペット可の部屋を背伸びして買ったからには、何か動物を飼いましょうよ、あなた」に対して、「うむ」と答えた次の日には、うさぎを飼うことに決定していた。
「うさぎよりも、ねこが良いのではないか」という、私の意見を妻は笑顔で無視した。後日、私は腹いせに猫カフェの会員登録を勝手にした。
茶色と白の毛色をした、うさぎの名前はぽこ太に決まった。アニメか何かのキャラクターから、妻がつけた名前。詳しくは知らない。
子どもがいない私と妻の家にやってきたぽこ太は、ふたりに盛大に甘やかされた。あとでコードをかじって問題になることがわかっていても、ケージから出しては一緒に遊んだ。
「トイレ掃除をやらないくせに、ぽこ太のトイレは綺麗にするわね」と妻にちくちく言葉を言われたが、ぽこ太の世話は進んでやった。妻もなんだか笑顔が増えたし、良いことだった。
* * *
いつもの寄り道で、繁華街を通る。今日は、どうやらこっちのうさぎの方にトラブルがあったようだ。
「あのさ。真面目にやってんの? そんなんじゃ、呼び込みって言わないよ?」
「すみません……。」
「恥ずかしいとか言ってたら、この街じゃ生きてけないの!」
うさぎが、腕を組んで仲間のうさぎを叱りつけている。叱られている側のうさぎは、ぽこ太よりも目が真っ赤だったかもしれない。そして、ネオンの中うさぎ二匹が光を背にして立っている構図はどこか芸術的だった。
このサイズのうさぎで、しかも複数。問題が起こらないわけもないなと思いながら、横を素通りする。
そうだ。うちにも、ぽこ太の他にもう一匹──複数飼いをしてみるのはどうだろう。それぞれのうさぎの性格が出て、今より楽しくなるかもしれないな。
妻には、当然のように「そんな余裕はないでしょう」と即座に却下された。ちょっとくらい迷ってくれてもいいのに。
* * *
それから何年かの月日が流れた。心なしか、周りを流れる時間が以前よりも早くなったような気はする。
毎日繰り返される日常は、いつも同じようで、家でも職場でもなんやかんや新しいことが色々起こる。
私は若い頃から健康が自慢だったが、長らく勤めている会社での健康診断で、気になる項目が増えてきていた。
そして、ぽこ太もどうやら、もう年らしい。
跳ねるよりも、ゆっくり歩くことが多くなってきた。身体の線も細くなっていた。妻は、毛艶も悪くなってきたと言っていたが、私には分からない。
数えてみたら、飼い始めてからちょうど十年だった。私は、時の流れに驚いていた。妻も時の流れに驚いていたし、家電を買い替える話もしていた。私は家電のことは聞こえないふりをした。
ぽこ太におやつの草をやろうと、ケージを開ける。そのときに曲げる腰が、少し痛かった。
ぴょこんとケージから飛び出すぽこ太の姿を、そういえば最近は見なくなっていた。それでも、寝床からこちらに顔だけを出している姿は、変わらず愛おしかった。
* * *
数か月の間、私は出張で街を離れていた。
電話のたび私がぽこ太の心配ばかりをするので、妻に「私の心配もしなさい」と怒られた。
ともかく、ようやく久しぶりにいつもの家に帰ってきた。ぽこ太が思ったより元気にしていて、安心した。その後、妻も元気だったので安心した。
そして久々に、繁華街を歩く。ここも、しばらくぶりだ。
けれど同じ空気のはずなのに、いつもと様子が違う。音が少ない気がする。
通りの看板は新しくなり、呼び込みの声もない。代わりに、無言で立つうさぎ耳の女の子たち。声の代わりに、風で耳が揺れている音が聞こえた。
手にするプラカードのようなものをちらりと見ると、次のようなことが書いてある。
「よかったら一杯どうですか」
「法律が変わって、私たちからは声をかけられません」
──「静かでいいね」と誰かが言うのが聞こえた。
でも、私は胸のどこかがざわつく。
もう、ここのうさぎも跳ねないんだな。コードをかじることもしない。
うちのぽこ太と、同じだな……。
たぶん、街が静かになるのはいいことに違いない。
ただ、あの夜の熱が、少しずつ遠ざかっていく。それがなんだか、私には無性に寂しく感じられた。
* * *
ほどなくして、ぽこ太は静かに旅立った。
この日は、有給をとった。妻とふたりで小さな箱に花を添え、ペット霊園で焼いてもらった。骨は、手のひらにおさまるほどの小ささだった。
駅までの道をいつも通り歩く。癖が抜けず、妻と一緒であることも忘れて繁華街の方へ足が向きかけたが、もう、これからは寄り道せずに最短の経路で帰ることに決めた。
ネオンの代わりに、月の光を受けた街路樹の影が並んでいる。
妻が小声で「また、動物飼う?」と尋ねた。私は「いや、しばらくいい」とだけ答えた。
気づけば、妻が、私の背中をさすってくれていた。自分でも知らないうちに、涙がこぼれていた。妻の前で泣いたのは、これがはじめてだった。
遠くで風が吹く音が聞こえる。うさぎの耳がまた、揺れているかもしれなかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。