増えるもの【創作】
「簡単な清掃作業です。専門的な知識は必要ありません」
求人サイトには、そう書かれていた。
時給も悪くなかった。週二日から可。服装自由、学生歓迎。仕事内容は「オフィス清掃、備品整理、ゴミ出し等」。
業種はIT系スタートアップ企業、とだけ書かれていて、具体的に何を作っている会社なのかはよく分からなかった。
僕は少しだけ興味があった。IT業界というやつにだ。
別に、起業したいとか、世界を変えたいとか、なにか新規性のあるものを開発したいとか。そこまでの熱量があるわけじゃない。ただ、大学の情報系の講義で聞く単語たち──クラウドとか、サーバとか、コンテナとか──が、実際にはどういう場所で動いているのか、少し見てみたかった。
面接はオンラインだった。
眠そうな男が画面越しに「掃除とか抵抗ない?」と聞き、僕が「ひとり暮らしなんで普通には」と答えると、「いいね」と言った。
そのあと、「いつから入れる?」と聞かれた。その面接の途中から採用の空気は流れていたが、まさか建物を出てすぐに採用の電話が入るとは思わなかった。
* * *
初出勤の日。
指定された雑居ビルは、駅から十分くらい歩いた場所にあった。エレベーターの扉が開くと、フロア全体が少しぬるかった。外の空気より、こもっている感じ。
受付らしいものはない。きょろきょろしながら、指定された部屋にたどり着いた。
ガラス扉の向こうに、長机とモニターがいくつも並んでいて、キーボードを叩く音だけが空間を埋めていた。
誰もこちらを見ない。
「あ、清掃の子?」
奥から声だけ飛んでくる。振り返ると、パーカー姿の男が、ノートパソコンを抱えたまま立っていた。髪が踊るように跳ねていて、目の下にうっすらクマがある。
「適当に、気になるとこやってくれれば助かる。備品とかはその辺。要るものあったらお金渡すから。買ってきてレシート出して。」
それだけ言うと、男はまた画面の中の世界へ戻っていった。どこか、ゲームのNPCみたいな挙動だった。
* * *
最初に気になったのは匂いだった。
生ごみと、コーヒーと、熱を持った機械の匂い。キッチンには、フードデリバリーで頼んだと思われる、食品の容器が積まれていた。
シンクの排水口には、茶色く変色した野菜くずが張りついている。スポンジは乾ききっていて、濡らしても泡立つ様子がない。
ごみ袋を交換しようとして、目を見開いた。袋がいっぱいなのに、誰も縛っていなかった。ただ上から押し込んである。ペットボトル。エナジードリンクの缶。コンビニの透明なカップ。
この部屋に「分別」という言葉はないらしい。圧縮されたごみが、ビニールを内側から破裂しそうなくらい押し広げていた。
そばに置かれた空気清浄機は、赤いランプが点灯したままだ。おそるおそるフィルターを外してみると、灰色の埃がフェルトみたいに固まっている。電気代を使って、空気の循環をただ邪魔するだけの装置になっていた。
腕を組んだ。
全体を見てからやるか、できるところから手を入れ始めるか、が悩みどころだった。細かい指示が来ないのは、僕の場合はやりやすい。
たどり着いた答えは、とにかくまず物を減らすこと、次にできる範囲で掃除をすること、そのあとに適切な掃除用具を調達することだった。机の裏には、黒いコードが大量に絡まっていて、電源タップから電源タップへ繋がっている。それも気になる。気にはなるが、今現場が回っているなら、そのあたりはあとでいい。
虫歯で強い痛みがあるのに、歯列矯正からするやつはいない。たぶん。
コードの要所に見られる白い結束バンド。それだけが、昔ここで整理を試みた人間の存在を、申し訳程度に主張していた。
* * *
ごみ捨て場にものを運ぶのをひと通り終えた。全部は無理だったので、作業スペースを確保できるところまでにした。
どうやら、業者に回収を頼んでいるから分別は必要ないらしい。さっきのパーカーの人に先に質問しておいたおかげで、無駄な仕分けをせずに済んだ。
そのあとは、黙々と掃除に入る。必要な物資は、次回の出勤時についでに買ってくるのが効率がよさそうだ。
ごみ袋を替え、シンクを磨き、床に落ちた髪の毛を集めた。何かを綺麗にすると、その周囲の汚れが急に目立つようになる。だから掃除は、終わらない。
床を這っていると、机の下にフリスビー状の機械を見つけた。どうやら、ロボット掃除機のようだ。戦力の足しになりそうだと思ったが、それには手書きの張り紙がしてあった。
「こいつは作業中のケーブルを抜いたので使用禁止」。
なるほど、と思った。
同時に、ケーブル配置を調整すれば、そんな事故は防げそうだという気もした。まあ、これだけ散らかっていれば、こいつの出番はたしかに薄いかもしれない。
IT現場で出番を失くしたそのロボット。僕はせめてもと思い、そのボディを雑巾で拭いて、汚れをとってやった。武士の情けとはこういうことを言うのかもしれない。
* * *
昼過ぎ、シュレッダーの横に段ボールの山を見つけた。そこには、同じ雑誌がたくさんあった。
『データサーバー・マンスリー』
『クラウドインフラ管理の最前線』
『次世代ストレージ特集』
ビニールも開封されていない。誰も読んでいないのだろう。最新号から順に積まれて、そのまま地層みたいになっていた。発送ラベルを見ると、毎月届いているらしい。
「あの、これ捨てていいですか?」
近くの社員さんに聞くと、モニターから目を離さないまま返事がかえる。
「あー……たぶん。というか、なんであるのかわからん。」
僕は雑誌を縛りながら、少しだけ考えた。
この会社。「増えるもの」を止める人がいないんだ。
コードもゴミも、タスクも情報も、全部。ひねった蛇口から、長い間水が出しっぱなしにされているように。
それを止めるために、僕はここに呼ばれたのかもしれない。
クラウドの雑誌と、ストレージの雑誌は、気になった煽り文のものだけ、いくつか縛らずにピックアップしておいた。あとで、貰って読もう。
とりあえず、発送元のひとつに電話をかけた。
「すみません、定期購読の停止をお願いしたいんですが……。」
保留音はやけにボリュームの大きい、グリーンスリーブスだった。聞きながら、窓の外を見る。春から夏へ向かう途中の空。光がブラインドの隙間からフロアマットにこぼれていた。
保留音が止まる。
僕は床に積まれた雑誌の山に視線を戻した。なんとなく、このアルバイトを続けていけそうな気がした。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。