国境を越える香り【創作】
国境の廃市に、ひっそりと一軒の喫茶店があった。看板の文字は剥げ、窓は割れ、だが店主は毎朝かならず湯を沸かし、粉を挽いた。
客は来ない。もう、この街には人影もほとんどない。それでも彼は腰をさすりながら、店を開け続けた。
ある日、店の裏口で倒れていた青年を見つける。
店主の眉がぴくりと上がる。──敵国の装いか。繰り返すたび心がすり減っていくばかりの日常で、久々に遭遇した刺激のある出来事……。
助ける義理など、ないはずなのに。
そう思いつつ、彼は青年を店の奥に運び、湯を飲ませた。どうせ近辺は中立地帯のようなもので、国からも捨て置かれている。咎める者もいやしまい。
青年は名を名乗り、事情を話した。国境に沿った旧交易路を歩いていたところ、道を外れ、この廃市へ迷い込んでしまったらしい。彼は感謝のしるしにと、腰袋から彼の村の乾いた風で天日干しされた「生豆」を差し出した。
国では、仇をなす国の食料の所持は禁じられている。敵の文化に心を許す行為とみなされるのだ。店主は、国外の穀物を取り扱ったがために営業停止をくらった商売人仲間の顔を思い出していた。
この店主がもっと若く、血気にあふれ、自国に忠義があれば。青年を助けることはなかっただろう。差し出されたものを受け取ることもなかっただろう。
しかし、戦は長く続きすぎた。誰を憎めばいいのかすら忘れてしまうほどに、皆が疲れ切っていたのだ。
丁寧に礼を言い、去っていった青年の残した豆。店主が試しに焙煎してみると、香りは驚くほど柔らかかった。
この国の豆は土っぽさが勝つのに、青年の豆は青く澄んでいる。これは……と思い二種類の豆を少しだけ混ぜてみると、えも言われぬ良い香りが立ちのぼった。
──国が禁じている「混成」。戦という壁に阻まれ、これまで一度も出会うことのなかった風味たち。その一杯は、疲れた心をふと軽くする味だった。
それからふたりは、誰にも知られぬように取引を続けた。豆と、豆とを交換する取引。相手の青年もまた、豆を混ぜたものを珈琲にしていた。
店主の営む喫茶店。合言葉は「新しい朝」。その言葉を呟けば、裏メニューとして禁忌のブレンドが提供される。
気づけば、町に流れ込んできた避難民のあいだでその噂は広がり、夜ごと数人の客が、恐る恐る合言葉をささやくようになった。
「新しい朝を……」
それは、壊れた国境のどこかで新しい何かが芽吹き始めた証だった。店主は黙っていたが、客の顔つきや声色の変化から、どこか、流れが変わったことだけは感じ取っていた。
客数は相変わらず少ないまま。しかし、「新しい朝」を求める客は、日に日に増えていった。
そしてある朝、兵士が店に現れた。
戦の終わりと、二国統一の正式な宣言を知らせに来たのだ。
静かに聞き終えると、彼は棚の奥にしまっていた木箱を取り出した。そこには、かつて裏でしか出さなかった禁忌の豆が入っている。
もはや隠す必要はない。新しい朝は、もう訪れたのだから。彼はそっと蓋を開け、店内に香りを漂わせた。
その日からそのブレンドは、メニューの筆頭に「オリジナルブレンド」として並ぶ。客はそれを見ても特別驚くことはない。まるでとっくの昔からそこにあったかのように、静かに注文していく。
店主は思う。統一の知らせが届くより前に、人々の舌と心はもうとっくにひとつになり始めていたのだと。
そして湯気の向こうで笑う客たちを眺めながら、あの日、境目で倒れていた青年に手を伸ばした理由を、ようやくほんの少し理解した気がした。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。