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十七人の集合写真【第二話 日常】


第二話 日常


「中東の人くるかも。」

メールの文面は、それだけだった。

事務スタッフの後輩である松本が、逢坂に申し訳なさそうにうかがいを立てた。

「五十嵐先生のこのメールって、どういう意味ですか……?」

多忙に多忙を極める大学教授のメールは、常に簡潔かつ難解だった。短文かつ誤字混じりだと、勤続三年目の逢坂でも理解しがたい場合がある。

逢坂は眼鏡を傾けて、松本のモニターに表示された文面に目を細める。

「……これは、留学生配属の可能性の話ですかね。『中東の国の留学生が、研究室配属を希望しています。面接の日程調整と、オンライン会議リンク作成をお願いするかもしれません』……みたいな。」

おお~、と感嘆の目で逢坂を見る松本。彼女は採用されて二年目だが、丸一年通して働いただけでは、研究室事務の仕事はまだ目の届かない部分も多い。

「さすがですね、先輩。」

はは、と乾いた笑いで返す逢坂。後輩とはいえ、よほど年上の松本によいしょされるのも気づかうが、逢坂にとって松本は女同士、数少ない雑談のできる相手だった。五十嵐研究室は、分野長の教授含め、ほぼ男性メンバーで構成されている。

「わかんないですよ。五十嵐先生のことだから、全然違う用件だったりして。」
「そんなことあるんですか。」
「ありますよ。この間も、『パスください』ってだけのメールがきて、『見送る』って意味なのか、『パスワード共有ください』って意味なのかわかんなかったですもん。」
「どっちだったんですか?」
「……どっちでも。サーバのファイルの場所、『pathを教えてください』って意味でした。」

そんなやりとりを、モニターを見てキーを打ちながらこなす事務ふたり。研究室の朝の日常のひとコマ。もうしばらくすれば、この居室に助教の先生や、所属学生がぽつぽつとやってくる。

逢坂は出勤直後にまずカレンダー入力をするのが常だった。その後はメールチェックと定型の事務連絡に続く。この日は、そこから留学生受け入れ手続きの自作マニュアルを見返していた。

もし先生の言う中東の留学生の面接が決まったら、来るかどうかにかかわらず、寮の空きは先に確認しておいた方がいいかもしれない。あとは、机に対してワゴンと椅子の数が足りないから、いつもの業者さんに見積もり依頼もしておこう。

配席確認のため、この居室の座席表のシートを開く。この研究室で雇用されたころ、この広い部屋にたったふたりだった。逢坂の他には、教授の昔からの知り合いである技術スタッフの穂波だけ。

ひとつひとつ席が埋まっていく過程を、逢坂は、ここで研究室が立ち上がってからずっと見届けてきていた。いつの間にか足りなくなる、電源タップにLANケーブル。研究費の執行に教授の決裁を待つ必要があるせいで、なかなか発注ができずやきもきする日々。

「さすがですね」か。

働き始めた当初は、わからないことばかりの中で、もがき苦しむ日々だった。合わなくて、すぐ辞めようと思ったことさえある。

でも、自分なりに考えて、色々なことをこなす方法を覚えていくのは楽しい部分もあった。そうしたら半年、一年と経っていて、ある程度の裁量を持たせてもらえるようになり、いつしか「逢坂さんがいないと」と言われる立場になっていたというだけだ。

向かいの教授室の明かりがつくのが、入口の扉越しに見える。

「あ、教授来られましたね。」
「ほんとだ、今日早いですね。」

入口の扉の前には、水槽がある。今年度、新しく買い替えたもので、以前のものより少し大きくなった。その中では、LEDに透けながら不規則に尾びれが揺れている。

逢坂には研究のことはわからないし、魚の名前も知らない。けれどその尾びれだけは、透明色の絹のように、逢坂の目にきらめいて映っていた。

* * *

結局、面接することに決まった。

定例のミーティングで、逢坂と松本は五十嵐教授からそう聞かされた。

教授も、直接話せば朗らかで気難しいところはない。メールだとそっけなく見えるが、それだけ時間に追われているということなのだろう。

意外とあっさり面接の話が進んだことに、逢坂は拍子抜けしていた。

厳しいふるいにかける先生にしては、珍しい。気まぐれで決めているような節も見受けられるが、先生が見つけて受け入れた学生、共同研究者、技術スタッフたちは、見事に全員が全員「良い人」だ。

研究者としての良し悪しは、逢坂には判断がつかない。しかし、五十嵐は研究費を絶やすことなく毎年度勝ち取ってくるし、同じ研究分野でも顔が広い。彼が人を見る目は本物なのかもしれない。

「ところで先生、中東の方って、どこの国の学生さんなんですか。」

逢坂が五十嵐教授に尋ねた。

「ああ、なんて言ったかな。確か、確か……。」

五十嵐は、手を頭の周りでぱたぱたと動かす。言葉が出てこないときの、彼の癖だった。

「そう。レルメドールだ。」

レルメドール。逢坂と松本が顔を見合わせる。聞いたことのない国名だった。でも、前に受入手続きをした留学生も、アフリカのあまり知らない国だった。実際に会って、顔を見て。英語でたどたどしいコミュニケーションをとってみて、ようやく国の輪郭がはっきりしてくる。

どんな料理を食べ、どんな宗教を信仰し、どういった文化を持つ国なのか。それは今考えなくても、一緒に過ごすことになればあとからわかるだろう。

PC操作にまだ不慣れな松本だったが、逢坂に教わって、オンライン会議のリンク作成をなんとかこなした。

逢坂は面接に備え、五十嵐から共有されたそのレルメドールの留学生の資料の準備を進めた。両面印刷で、資料のホチキス留めは斜めではなくまっすぐに。先生の好みは、この二年あまりでおおよそ理解できていた。

「出願書類パスください。」

追って、五十嵐からメールが飛ぶ。今度は、逢坂が松本へ声をかけた。

「松本さん。これ、わかりますか?」

その声には、試すような色が含まれていた。

「ううん……。」

これ以上しかめられないくらいの眉で、松本は文面を睨んだ。

「『留学生を、研究生としてまず受け入れる場合に必要な……期日や要項の情報が必要。ですから、その事務書類が配置されたサーバ内のpathを教えてください』でしょうか?」

逢坂はくすりと笑った。

「たぶん、当たりだと思います。」

* * *

「お疲れさまです。」
「あ、お疲れさまでーす。」

助教の先生が退室し、共同研究の職員二名もそれに続く。技術スタッフについても、穂波と新井はいつの間にかいなくなっていたし、遅くまで残りがちな百合川も、家の事情でこの日は先に帰っていた。普段なら数人残っている留学生たちも、今日は珍しく不在。

この日逢坂は、教授とのミーティングで課されたタスクが多数あり、松本を先に帰して残っていた。モニターから視線を移すと、窓の外はいつの間にか闇に沈んでいる。

労使協定に引っかからなければ、超勤をどれだけつけても教授は何も言わない。業務の種類はとにかく多岐にわたるけれど、有給も取りやすく、前の職場と比べると気持ちの縛られない職場だった。

「自分の仕事が、何につながっているのか」。

それは前の職場からずっと、逢坂の中でくすぶり続けている問いだった。見つかりそうで、手が届きそうになるとするりと逃げてしまう、謎かけのような、曖昧な問い。

それは一生見つからないものなのかもしれないけれど。色々任されるこの職場なら、無理のない範囲で色々こなしていれば、見えてくる景色があるのかもしれない。

「そうだ。忘れてた。」

留学生へ、オンライン面談日程調整のメールを新規作成する。

アルシェド・ラミザフ様、と。

打鍵音に混ざって、水槽のポンプ音が耳に届く。研究室が静かな夜でもそれは止まらなかった。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。