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十七人の集合写真【第九話 断絶】


第九話 断絶


都市は危険な状態だった。

死者は千人を超える。街の知人も、何人か亡くなった。そして、アルと母に地方の村へ移動する話が出た。そこは比較的安全だと言われていた。

しかし、アルは最後まで反対していた。ここは長年住んできた街だ。

日本へ行けば、もう戻れないかもしれない。それに、村にスキャナーなどの機器があるとは思えない。書類はすべて提出済みだったが、採択後に追加の署名や原本確認を求められることもあり得る。場合によっては、機器の充実したここに戻ってこなければならなくなるのだ。

しかし母は言う。安全の方が大事だ。ここで命を落としてしまっては何にもならない、と。

アルは忌々しげに、髭をたくわえた口元を歪める。研究室では限られた計算資源を共有し、ときに奪い合っていた。しかし、国と国との間でさえ、こうして天然資源の奪い合いが起こる。

安全な場所への移動は理にかなっているように思えた。だがそれは、逃げることではないのか。自分は今後、日本で研究を続けて博士課程へ進学し、研究者となって働くことを目指している。それは事実だ。

ただ、この国に二度と帰らないというつもりはなかった。今この街を去ることは、帰る場所を捨てることなのではないかと思った。

* * *

アルはようやく観念し、移動を決意した。すでに町でも、ネットワークがつながったり切断されたり、という事象が繰り返されていた。

否応なしに、ちょっとした振動や音にも敏感になる。外出時に大きな音を聞き、反射的に地面に伏せる場面が、アルにも一度ならずあった。

街を出る前の最後の日。オンラインに復帰したタイミングで、メールを確認する。特に、日本の研究室から手続きについての連絡はなかった。そして、日本側の研究室メンバーに余計な心配をかけまいと、その移動について知らせることはしなかった。

それでなくても、レルメドールが戦争状態に入った件は、日本でもニュースになっているだろう。

その夜、部屋は妙に静かだった。停電が続き、冷蔵庫の音もしない。遠くから、風が鳴る音だけが時折届いた。

アルは机の引き出しをひとつずつ開け、持っていけるものと置いていくものを分けた。論文のコピーは束のまま残した。ラジオはそのまま机の中で眠らせ、祖父から譲られた本も、本棚へ戻した。

持ち出せるものより、置いていくものの方がずっと多かった。

そして、ついに出発の日が訪れる。

アルは、村への移動を無事に終えたあと、自身の日本への航空券手配についても考えなければならなかった。最短のルートではなく、できる限り安全な方法を選択しなければならない。あえてアジアの別の国を経由して移動することも想定された。

出発の際、荷物は最低限に絞った。書類と衣類と薬。母の分も含めれば、それだけでいつもの鞄はもう入らないと音を上げた。避難用の物資と日本への土産であるラグマットは、別の鞄に詰めた。そして、アルは祖父のカメラを胸ポケットにぎゅっと押し込む。これだけは、手放すわけにはいかない。それはアルの気持ちを汲むかのように、すっぽりとそこに収まった。心臓近くに、硬い輪郭ができる。

目指すのは、母方の親戚のいる村。祖父のいた村とはまた、違う方向になる。地面はそこまで荒れてはいないが、とにかく長い道のりだ。ひたすらまっすぐで、途方もない。歩きたいとも思えないほどに。

車に揺られていた。昔から付き合いのある、街の知人と一緒に出発した。狭い車体に押し込められる格好になったが、この情勢悪化で、燃料は分け合う以外の選択肢がなかった。

「車を出す分、悪いが多めに負担してくれ。」

知人の男の表情は、ばつが悪そうではあった。しかし、答えを待つより先に手のひらを出していた相手の態度に、アルの心は揺さぶられていた。

「そうか。それではこちらは歩くことにします。」

母を抱えて、そんなことが言えようはずもない。アルは紙幣の束に一度皺を作ってから、男に渡した。

アルは、後部座席で母と隣り合わせに座っていた。運転席には例の知人、助手席には知人の関係者らしき、別の男が乗っていた。

荷台付きの古いピックアップは、本来は農作物や資材を運ぶためのものだった。今やその車は灰色の塗装が剥げ、フロントガラスにひびが入っていた。積まれた荷台のほとんどは、貴重な水のタンクや食料入りの布袋だ。そんな中で、アルたちの荷物が所在なげに脇に追いやられていた。

アルは自由を制限された身体を小さくしたまま、その視線は、どこまでも続く遠くの荒野を捉えていた。

移動を始めて、何時間か経ったころのことだった。広い視界が少し狭まる。木々や、岩壁が目立ち始めた。

突如、巨岩の後ろから、地響きのような音とともに飛び出す影があった。

* * *

アルの目が、大きく見開かれる。一台の車が轟音とともに進路をふさぎ、こちらの運転手はブレーキを踏まざるをえなかった。

目の前を遮る車も、同じように砂煙を上げて停止する。音が消えるか消えないかの刹那。アルの身体は硬直し、脳に指令を送っていた。

襲撃。武装。

不穏な単語が遅れて飛び出す。

知人の男が運転席横の窓から、目の前の車に文句を言った。どういうつもりだ、と。しかし、彼はそれ以上言葉を続けることができなかった。目の前の窓ガラスもない車の側面には、泥や弾痕が張り付いていた。

パンッ。

何かが破裂するような音と同時に、運転手はその席の中で身体を曲げてくずおれた。誰かの息をのむ音が聞こえた気がする。

相手の車には四人。目出し帽をかぶって、助手席の男が銃を構えていた。手にしたその筒先からは、うねるような煙が出ている。

心臓を大きな手で強く掴まれているような心地だった。アルは視線の先に、祖父から譲り受けた、武器庫で見覚えのあるかたちを見ていた。

殺傷能力。装填速度。また、物騒な文字が頭をめぐる。そのとき、引き金にかかった指が絞られるのが見えた。

母は、呆けていた。眼前の現実に、意識が向かっていないようだった。アルは、隣の母をかき抱いて背で守った。

先ほどと同じ、音と光がこちらに走った。ガラスが割れる。なにがなんだかわからないうちに。意識は遠くへ飛んでいた。

アルが倒れた拍子に、胸ポケットからフィルムカメラが落ちた。開いていた窓から砂地に転がり、レンズが割れる。割れた音を聞いた者は、誰もいなかっただろう。

母は、声を殺して、車内に身を隠した。息子の身体が重く彼女に覆いかぶさっていた。

直後、こちらの車の助手席にいた男が、持参していた銃で応戦した。乾いた音がいくつか響く。それを受け、その改造された民間車は彼方へ走り去った。

助手席の男は車外へ飛び出し、運転席のドアを開ける。動かなくなった運転手を助手席へ蹴り込むように押しやり、自ら運転席へ滑り込んだ。

母は、怪我ひとつなかった。自身にもたれかかる、アルシェドの名前を何度も呼ぶ。側頭部から血を流し、彼は眠ったままだった。その血の熱さに反して、表情からは色が失われていく。

グン、と母の身体に大きな力がかかり、視界に砂煙が舞った。先ほどまでよりも、その車の外を流れる景色が速い。

カメラはその場に残された。

割れたレンズは無数に散って、地面で空をただ映していた。

* * *

それからしばらくして、地域によって通信が安定し始める。

たどり着いた弟夫婦の住む村にあったのは、平穏ではない。まだ何も起きていないだけの静けさだった。快く迎えてくれた彼らのやさしさは、かえって鋭く胸を刺した。

アルの母は、ようやく何かに手を付け始められるようになった。生きるための道を探るよりも前に、はじめに手をつけたのは愛しい息子のことだった。

母は、息子のメールアカウントを開き、受信ボックスを確認した。息子のPCは、以前のログイン状態のままだった。

英語は堪能ではない。しかし、息子から聞いて知っている単語はあった。

“Accepted”
“Scholarship”
“University”

そのくらいなら、わかる。活き活きとした瞳と表情で、彼が話したいくつかの言葉は忘れようもなかった。

本当につい最近の日付だ。新しいメールが二通、届いていた。

一通目は、日本大使館から。

弟なら、英語を読める。呼ぼうかと身体の向きを変えかけて、止めた。機械翻訳でもいい。自分が先に、意味を受け止めるべきだと考えた。

それは、通知だった。

「最終選考の結果、アルシェド・ラミザフ氏の国費留学生としての採択が正式決定しました」という知らせ。

言葉の意味を反芻して、二通目も、遅れて開く。

送り主は、これまでやりとりしていた日本の大学の事務スタッフである逢坂。受け入れ教授の研究室からの連絡だった。

「採択のお知らせを受け取っていると思います。

 受け入れ手続きを進めるため、添付の誓約書に署名いただき、スキャンまたは写真で送っていただけますでしょうか。

 なお原本は、来日の際に必ずお持ちください。」

そう、書かれていた。

「国の情勢は、日本までニュースで届いています。最近、連絡が取れなくなっているため心配です。安否確認も兼ねて、現在の状況を知らせていただけますか。」

そんな、気づかいの一文が添えられている。母はため息をつき、目の奥が熱くなった。

「研究室一同、日本でお会いできるのを楽しみにしています。──逢坂」

その言葉で、そのメールは結ばれていた。

母はしばらく画面を見つめたまま動けない。返信の画面を開き、何かを書こうとするが、どんな言葉を書けばいいのか分からない。カーソルは点滅し、文字が滲んで見えた。

状況を説明しようとしても、どこから書けばいいのか。それが、決められない。選択するたびにカチッ、という音が、心音と重なるように鳴った。

「息子は」と打ち、続けて「元気です」と打っては、消す。

結局、何も送らないままメール画面を閉じる。返信されないまま、画面だけが暗くなった。乾いた埃の匂いを帯びた、部屋の空気だけが取り残されている。

窓際には、猫の模様の小さなラグマットが数枚、まだ店の紙帯を巻かれたまま置かれていた。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。