三枚におろしたあとで【創作】
玄関の外に置かれた白い保冷ケースは、朝からずっとそこにあった。
帰宅して靴を脱いだあとも、しばらくは気づかないふりをしていた。けれど廊下の奥までじわじわと冷気がにじんでくるようで、視界の端にやけに白が残る。
仕方なく蓋を開けると、氷と一緒に横たわっているのは、季節外れの大きな魚だった。銀色の体は鈍く光っており、こちらを見ているわけでもないのに、目だけがてらてらと、やけに生々しい。
──事故で腰を痛めてから、重いものを持ち上げられないって知ってるくせに……。
ふつふつと湧く感情を押さえながら、私は両手を差し込んで力を入れる。瞬間、腕が持っていかれるように食い込む。膝と腰を使ってなんとか抱えると、水がしたたって、玄関のタイルに小さな点をいくつも作った。台所へ運ぶまでのあいだ、魚はわずかに揺れ、そのたびに自分の体の中まで一緒に揺らされる気がした。
分かってはいたが、まな板に収まらない。そのままシンクの縁に斜めに乗せると、尾が少しはみ出した。蛇口をひねると、水の音が一気に広がり、周りに跳ねる水しぶきが他の音を消した。
うろこを取る。包丁の背を当てて、尾のほうから頭に向かってこそぐ。じゃり、じゃり、と乾いたような耳ざわりの音。細かい破片が飛び散って、手の甲や頬に貼りつく。流しても、すぐにまたつく。
──前にも、似たようなことがあった。勝手に家に届けられる、高級そうな食材。黙って送りつけるくせに、調理していないと怒鳴られた、あの夜。
スマホがどこかで震えた気がした。
ポケットか、テーブルの上か。手はぬめっていて、持ち替える余裕もない。音はすぐに止んだ。
過去に言われた言葉が、頭の中でリフレインする。
もう一度、じゃり、じゃり、と削る。思わず、さきほどよりも力が入っていた。
エラぶたを開くと、見たくもない内側の赤が露わになる。刃を入れるとき、少しだけためらう。目に力を入れて気合で押し込むと、ぬるりとした抵抗のあとで、急に軽くなる。腹を裂くと、中からまとまった熱が逃げるように流れ出て、独特の匂いが一気に広がった。
顔を背けずに、そのまま手を入れる。やわらかいものと、形のはっきりしないものと、細いもの。ひとつずつ、取り出していく。シンクの中では水が赤くなり、すぐに薄まる。
スマホはもう、鳴らなかった。
背骨の内側に残った血を、指でこすり落とす。爪のあいだに入り込む。水を強めると、流れはする。けれど、完全には消えない気がした。
頭を落とす。骨に当たる感触で刃が止まり、少し角度を変えると、コツンとした音とともに、手ごたえがあった。
背に沿って包丁を入れる。骨に触れるたびに、手首に伝わる細い振動。まっすぐに引いているつもりでも、少しずつずれていく。片身が外れ、もう片方も同じように切り分ける。
三枚に分かれた身が、まな板の上に並ぶ。
思ったよりも、きれいだ、と思った。
その瞬間、さっきの振動を思い出す。濡れた手を軽く振って、水を切る。スマホを取ると、画面に短い通知が残っていた。
「今日、魚が届くけど、そのままにしておいて。明日、社長の家で職人呼んで捌くから。絶対触らないでね。」
しばらく、画面を見ていた。視線を外し、続けて、おろされた魚の方へ。
──触らなければ怒られ、触れば「そのままにしろ」と言われる……。
水の音だけが続いている。まな板の上の身から、透明な液がゆっくりと滲んでくる。さっきまでの重さが、どこに行ったのかわからない。重い魚を抱えて運んだときの腰への負担が、今になって遅れて鈍い痛みを連れてきていた。
「……しぃらない。」
声に出したのかどうか、自分でもよくわからなかった。
冷蔵庫を開ける。棚の奥に、未開封のしらすのパックがある。軽くて、小さくて、無数に詰まっている。
それをひとつ取り出して、玄関へ戻る。空になった保冷ケースの中に、そのまま放り込む。氷の上に落ちて、音もなく沈む。
一応、魚だ。職人に、五枚にでもおろしてもらえ。
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
手を洗う。洗剤をつけて、こすって、水で流す。もう一度、揉み込んで、流す。指の腹を擦り合わせても、どこかに残っている気がする。
エプロンを外して、椅子の背にかける。必要なものだけを小さな鞄に入れる。財布、スマホ、鍵。他は、思いつかない。
玄関のドアを開けると、外の空気は思ったよりもやわらかかった。さっきまでの匂いを、少しだけ洗ってくれる。
電車はそれほど混んでいなかった。吊り革につかまると、指先にかすかな違和感が残る。さっき洗ったはずの手が、まだ何かを覚えているみたいに。
バッグから小さなボトルを取り出して、アルコールを吹きかける。両手をこすり合わせる。揮発するとき、匂いが一瞬強くなって、それから消える。
それでも、どこかに残っている気がした。
もう一度使おうとして、やめる。
窓の外を、光が流れていく。どこへ行くかは決めていない。ただ、次の駅で降りてもいいし、このまま乗っていてもいいと思った。
吊り革を握る手は、少しだけ軽くなっていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。