声のいらない約束【創作】
中学二年の春。
人と話すのが苦手で、授業中も発言するのを避けてきたぼくは、自分を変えたくて手話クラブに入った。言葉を声にするのは怖いのに、手でなら少し素直になれる気がしたからだ。
放課後、校舎の中庭をはさんだ渡り廊下を歩いていると、向かいの窓から同じクラブの友人を見つけた。
彼は別のクラスだから普段は顔を合わせないけれど、たまに下校の時間が合えば一緒に帰る仲だ。
窓ガラス越しに目が合うと、彼がにやっと笑って、自身の両手の人差し指を向かい合わせにくいっと曲げた。
──『こんにちは』だ。
手話クラブで最初に習った挨拶。
わざとらしいその動きに、思わず吹き出しそうになる。
少し間をおいて、また彼が指を動かした。
──『先生』『呼ばれてる』『あとで』『1階で』
単語をつなげただけ。文にはなっていない。
それでも自分はすぐに頷いて、指を一本立てて『了解』のサインを返した。
さらに、彼に応えるようにぼくも手を動かす。
──『本屋』『寄って』『帰ろう』
たぶん、文法はめちゃくちゃ。でも、通じた。
彼も笑って、親指を立てる。
そのやり取りを、通りすがりの生徒がちらりと見ていった。
奇妙そうに眉をひそめる子もいたけれど、不思議と気にならなかった。
むしろ胸の奥に、温かいものが広がっていく。
思い出すのは、クラブの先生の言葉。
「指文字でも、ジェスチャーでも、筆談だっていい。
伝えようと思うこと。それが、いちばん大事なんだよ。」
そうだ、たどたどしくてもいい。
ちゃんと通じ合えた。今のぼくたちは、それで十分だった。
ぼくは小さく笑い返し、友人も口の形だけで「また後で」と言った。
放課後の光が廊下に差し込む。
声ではなく、手でつながる自分たちの時間が、少しだけ誇らしく思えた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。