課長のおごり【創作】
飲み会の席。
今日こそは、みなに慕われる上司を演出する。
課長は燃えていた。仕事でもプライベートでも、暑苦しい男だった。
店に入って通されるなり、卓上の注文タブレットが沈黙していた。画面は真っ黒で、電源が入らない。
店員が駆け寄ってきて、「すみません、充電切れみたいで」と頭を下げる。隣の卓のタブレットを外し、こちらへ持ってきた。
課長からすれば、出鼻をくじかれた格好。しかし、これでへこたれていてはいけないと、気を取り直した。
* * *
ここのところずっと、空回り気味だった。
四月に入って課に若手が増えた。自分はまだやれる、頼れる上司だと示したいのに、どうにも距離が詰まらない。
職場の雑談では昔のネタは通じないし、世間の流行りのネタはわからない。会社での武勇伝は響かないどころか、そもそも話が通じていないようだ。
こちらがオブラートに包んで物事を伝えるのに対し、若手は全身にオブラートをまとって、膜越しに返答をしていた。
自分が若手のころは、当時の上司に尻を叩かれて、飲まされて、それで学んだことも多くあったのに。
今は違う。誘うだけで「何とかハラスメント」だ。誘えないので、ただ声がかかるのを耳を澄ませて待つしかなかった。
その点、新年度懇親会の場合は話が別だ。会社のイベント、仕事の延長。それも会社からはひとり千円まで支給される。全額支給にならない、その半端さがいい。
ここで課長が奢れば、ヒーローになれる。普通は若手にやらせる仕事だが、幹事まで自分で買って出た。価格と味と、酒の提供とのバランスがちょうどいい焼き肉屋。取引先に教わった隠し玉の店だ。
そして食べ放題、飲み放題付きで十五人分。痛い出費ではあるが、課長の給与でも払えない額ではないのだ。
ひとり千円しか出ない、しみったれな会社でよかった。
最初は言わない。
帰り際だ。
うむ、帰りにさっと払っていなくなれば、「課長かっこいい」「素敵」と言ってもらえる。次からも飲み会の声がかかろうというものだ。
課長は、ほくそ笑んでいた。ほくそ笑みながら裏返した肉は、まあまあ焦げていた。
* * *
懇親会は、それなりに盛り上がった。
酒を強制しないこと、愚痴や自慢話は避けること。ネットで読んだ「嫌われない上司の飲み会術」を忠実に守った。
でも、そしたら、なんの話をすればいいんだ。
「なんか困っていることない?」
「備品で欲しいものある?」
結局、これでは会議の延長だ。個人的な話を聞くこともできない。課長は憎かった。コンプライアンスの壁が。
もっと楽しく、盛り上がる会に本当はできるのに。ビールを飲みながら、自分でも退屈だと思った。この年になると、気を抜いた途端、すぐに法事とか介護の話になってしまう。
スポーツにもお笑いにも、アイドルにも興味が一切ない。あまりに王道を通ってこなさすぎた。落語やクラシックの話はできるが、きっと愛想笑いしか引き出せないだろう。
三時間のコースはあっと言う間にラストオーダーの時間を迎えた。
正直、距離が縮まった実感はない。だが、課長には切り札がある。朝、銀行で下ろした現金が財布に入っているのだ。
この日はその厚みを、何度となく確かめていた。
* * *
課長はトイレに立つ振りをする。
その足でレジの方へ行き、近くにいた店員に小声で言った。
「あそこのテーブル、まとめて払いたいんですが。」
こそこそ言う課長の声は震えていたが、店員としてはよくあることなのだろう、「はいはい」とばかりにQRコードの紙を持ってきた。
「セルフになるので、レジでこちらをかざしてください。」
課長はQRをかざす。
六万二千八百円。
安い。
事前の計算では、七、八万の想定だったが。
飲み放題が抜けているのか。人数が少なく入っているのか。
ほんの数秒、迷う。
確認するべきか……。しかし、今さら店員と話し込む姿を部下に見られたくない。
考えていると、「課長戻らないね」という声が想像の中で響いた。
途端に、まあいいかの気持ちが勝つ。向こうのミスなら、自分の知ったことじゃない。決済のボタンを押した。
「席には、もう払ったって伝えておいてください。」
姿を見せずにそのまま去る。
課長は、振り返らなかった。
* * *
「あ、すいません。店員さん。」
数分後、レジで店員を呼ぶ客があった。QRコードをかざした後の、金額についてのクレームらしい。
「あの、私たちのこれ、高すぎません?」
「少々お待ちください。十番テーブル様は、二時間コースでしたよね……。」
店員は、その客のいたテーブルに向かい、タブレットを確認する。タブレットの番号と、テーブルの番号が違っていたことに気づいた。
とたとたと急ぎ足でレジへ戻る店員。
「申し訳ありません。お隣のテーブルと、タブレットが入れかわっていたようです。お客様のQRコードはこちらになります。」
それをかざすと、そのコードは「支払い済み」となっていた。
「私たちの六万円、誰かが払ったってこと?」
「え、ラッキー。帰ろうぜ。」
「セルフだから、金額違えば気づくよね。石油王だったのかしら?」
戸惑いながらも、そのテーブルの客は退店した。マニュアルにない事態に不慣れな店員の、三時間コースの九番テーブルへ向かう足取りは重かった。
結局。
九番テーブルに残された十四人は、課長が勝手に隣のテーブルの支払いだけをして帰ったことを伝えられ、その支払いをそれぞれがすることになった。課長の分を、残されたメンツで立て替える。
「あとで絶対返してもらいましょうね。」
「課長酔ってたのか? なにやってんだよ。」
「課長の支払った分って、経理に回しても、懇親会経費の千円は出ないわよね。」
口々に言いながら、みなが財布を開く。千円補助されることよりも、人の分を払わされる負債の方がずっと心に残った。
* * *
「いやあ、今日は、気分がいい。」
帰り道。レシートを、そっと財布に仕舞う。残った現金は、思ったよりも厚みを残していた。朝、銀行で下ろしたときについた折り目は、まだきれいに揃っていた。
いい夜だった。
何故だか支払いも安く済んだ。たぶん、明日から少し変わる。部下たちも、自分を見る目が。
そう思うと、足取りが軽かった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。