十七人の集合写真【第三話 障壁】
第三話 障壁
一次選考通過の知らせを受けたあと、アルは忙殺されていた。希望を見る暇を与えないくらい、容赦のない書類地獄。
『研究を続けるための手続きに邪魔されて、研究ができない。』
そう教授がこぼす愚痴を何度も聞いていたが、その気持ちが少しだけ理解できた。
ひとつずつ順に集めていくだけなら、作業としては軽い。しかし、課された条件や求められるラインを理解しつつ、日々の生活に割り込ませなければならない。それも、絶対厳守の期限とにらめっこしながらだ。
研究計画書は、丁寧な推敲を前にまずはざっと仕上げる。旅券の写しに、戸籍・家族証明は機械的に準備をした。
そして、成績証明書と、卒業見込証明。
学務の窓口で、受付から受けた言葉が胸に戻る。この国では、修士課程の卒業が決まるまでは成績証明書が「凍結」されるという。つまり、正式な証明書を現在は出せないため、仮の書類の発行依頼をする必要がある。当然、その書類で代えられるかを提出先に事前確認する手間も発生するのだ。
このような、漏らすことが許されないポイントが数多くあった。
さらに証明書関連は、国の公用語が英語でないことに由来して翻訳センターへの翻訳依頼も伴う。
すでに一次選考で提出した推薦状も、日本側へ添付する資料として改めて整理した。多忙な指導教員の名前を借りた言葉に、自分の研究のかたちがどう滲んでいるのかを、今さら確かめるように読み返した。
一次選考のために集めた書類の束。それを今度は、日本側に見せるためのかたちへと組み替える。終わったと思った作業が、紙の向きを変えるだけでまた違った意味を持つ。
アルは、自室の机、手元灯の下でラップトップを操作し、書類の準備を進めた。長時間の作業は、椅子が軋むたび、腰と背中へ負担がかかる。
中でも、英語資格のことは考えると気が重い。しかし、ともかく、一次選考の突破は彼にとって大きな前進だった。目の粗いふるいにかけられても、なんとか自分という砂は残ることができた。ここまで来たのなら、振り落とされることなく、日本への留学を現実のものにするしかない。
だが、選考は実力で勝ち取れても、この先に不安定な要素が多いのもまた事実だった。
今のアルの立場は、成績や面接を経て「推薦候補者」、つまり「国から出してもいい人」になれたのみなのだ。
腰の痛みを紛らわせるため、背筋を張った。今はまったく油断できるタイミングではない。今後気を抜くことができる箇所があるのかすら怪しかったが。
アルは自身の研究分野に近い研究室の教授へ、メールを書いた。大学のランクは、今通うところと比べて、同じか少し高いくらい。複数の候補のうち、願掛けの意味も込めて、祖父が住んだことのある土地から近い学校を選んだ。
アルの指先はためらうように動き、その研究室のWebサイトを開いた。ギャラリーにあった、アルの研究室のものよりも大きい水槽の写真を、もう一度見る。
そして、今年四月更新の日付のものをクリックすると、少し遅れて、サイズの大きな画像が段階的に表示されていった。
十人程度の集合写真だった。桜の木々が並ぶ中で、間から青い空が覗いている。足元の緑の芝すら、血が通っているかのような濃い生命の色を宿していた。
散った桜の花びらが、写真の中でいくつも留まっている。被写体である研究室メンバーはみな、太陽光に目を細めながら、彼らなりの笑顔を返していた。
作業の手が止まる。感情にリソースを割けないほど脳は疲れていたはずなのに、自然と頬が緩んでいた。
ここに行きたい、そう思った。
アルは、魚の行動の解析をこれまで熱心に研究してきた。
水の中をほしいままにできる存在のはずなのに、どう動き、どう泳ぎ、どう生きるかは個体や種別ごとに異なる。それを少しずつ知るたびに、自分の世界の輪郭まで同じように広がっていく気がした。
水の中を泳ぐ魚には国境がない。流れに逆らうものも、群れから逸れるものだっている。それでも、生きるために選んだ軌道を、誰も責められない。
だがこの国では、もう限界が見えていた。小さな水槽に不安定な電気、足りない設備。砂上の楼閣が崩れるのを待つだけなんて、御免だ。砂から伸びた手に足をつかまれ、引き戻されてたまるものか。
日本なら、その先が見られる。
祖父が暮らした土地。群れの軌跡を追える設備。自分の研究が、まだ先へ進める場所。
推薦の話が出てからは、どうしても行きたいというアルの願いは、強まる一方だった。
受け入れ先の研究室が決まれば、きっと祖父に会おう。会って、エルネアでの生活について、聞くんだ。
他国からの研究室受け入れ希望のメールなど、無視されることも多い。その中で、相手先の教授からの返事は早かった。
Re: Research Student Application
メーラーの受信トレイで返信を見つけたとき。心臓が跳ね、喉元の水分が一瞬で失われたかのような緊張が走る。履歴書や志望メールの内容だけで、選考すら見送られるケースも想定された。クリックする前に、一度天井を見てから、短い祈句を口の中で唱える。
神よ、もしここに道があるなら──。
カチっという音が部屋に響き、ウインドウが開く。片目を開けておそるおそる見る。事務スタッフによる代理の文章ではあったが、そこには教授からのアルが心から求めていた返事が書かれていた。
* * *
Ohsakaという、男性か女性かすらわからない事務スタッフとのやりとりを経て、オンライン面談の日が決まった。
ここ数日のネットワーク回線は不安定だった。大学内の回線も、自宅の回線も信用できない。結局アルは、比較的通信の安定していた研究棟の一室を借りることにした。ハエが出るから、あまり気は進まなかったが。
まだ、面談に進んだだけ。ここから、一緒に研究してもよい、という評価を得なければならない。相手教授からすれば、受け入れても卒業させることができなければ、所属大学からペナルティを受けるのだ。だからこそ慎重になる。それを念頭に入れて、臨む必要があった。
十五分のプレゼンテーションと、その後の質疑応答。
資料は何度も見直した。研究生としての身分で受け入れてもらい、そのあと博士課程へ進学。将来は、できることなら日本で研究者として働く。そのための入口だ。
現在選考中の、国費留学生としての受け入れが決定すれば、授業料だけでなく学生身分である間の生活費まで、膨大な額の支援が受けられる。日本の研究室にとっても、金銭面で不安があるかないかは受け入れの判断材料に大きくかかわるところだ。
開始十分前。画面を開く。
先に入っていたのは、教授ではなく事務スタッフだった。
「Hello, can you hear me?」
女性の声だった。アルは一瞬だけ驚き、慌てて返した。
「Yes. I can hear you clearly.」
画面の端で、彼女は何かを確認するようにキーボードを打っていた。名前の表示は、逢坂。どうやらこの人が、Ohsakaらしい。黒髪を後ろで束ね、眼鏡をかけていた。子どものようにも見えたが、幼く見えるだけできっと成人しているのだろう。
やがて教授の五十嵐が会議に入室し、面談が始まった。
途中、回線は二度止まった。ぷつりというノイズとともに音声が途切れ、映像が固まるたび、アルのマウスを操る指先は冷えた。
だが研究の話になると、不思議と緊張は消えた。そばを何度も通り過ぎていたハエの羽音も、そのときは聞こえなくなった。舌は軽くなり、流れるように言葉が出る。
これまでの研究成果。
モデルフィッシュの回避行動解析。光刺激への反応に、睡眠パターンの異常検出。アルにとっても五十嵐にとっても、母国語ではない英語を使って、やりとりが進む。お互い、発音は完璧ではなかったかもしれない。音声にはノイズも乗っていた。しかし、会議システムの自動文字起こしも手伝って、意思の疎通に問題はなかった。
教授は次々に質問を投げた。そのほとんどが、研究に関するものだ。
「この追跡アルゴリズムは独自実装ですか?」
「はい。」
「教師データは?」
「それも、自分で整形しました。」
「……では、群泳データへの拡張は?」
アルは少しだけ息を置いた。
「まだ、実物で見たことがありません。」
教授が眉を上げた。アルは続けた。
「でも、だからこそエルネア……いえ、日本でやりたいんです。」
画面の端で、メモを取っていた事務スタッフが一瞬だけ顔を上げた。教授は最後に、なぜ数ある研究室で日本のこの研究室を選んだか、について質問した。アルは正直に、かつて日本に住んでいた祖父のことを話した。
面談が終わるころには、アル自身にも手応えがあった。
教授は最後に言った。
「君の研究は面白いよ。うちとのシナジーもある。ここで続けられれば、できることは多いと思う。」
国費奨学金の最終審査が終わり、奨学金をとることができれば、教授はアルを受け入れることについて明確に前向きな意向を示した。
そして要項に沿って、まだ取得していない英語資格を必ず取るよう念を押した。
会議から日本のメンバーが退室し、画面に自分の名前だけが表示されていた。頭のそばを飛ぶハエを、さっと追い払う。認められた達成感のようなものを、顔の火照りから感じていた。しかし、最後の英語資格の件だけが、アルの胸に少し重く残っている。
ラップトップを閉じる。研究棟の窓の外は、もう夕暮れだった。
借りていた部屋を出て、薄暗い廊下を歩く。蛍光灯の何本かは切れたままで、足元だけが途切れ途切れに白かった。遠くで、検問所のスピーカーが何かを告げている声が聞こえた気がした。
* * *
ほどなくして教授から、研究生出願の様式と、署名済みの受け入れ内諾書が送られてきた。
アルはその画面を、母に見せた。その英文をよく読めないまま、母はそれが良い知らせであることだけを表情で理解した。
「決まったの?」
「まだ、途中だけどね。」
そう言っても、声は少し弾んでいた。それを聞いて、母は笑った。その晩、食卓の上でアルは英語資格試験の費用を見せた。
母は金額を見て、黙った。アルも黙った。レルメドールでの平均月収を、何倍も超える額だ。他国では、どうかわからない。しかしこの国では、能力があっても資格を得るためには経済面に余力がなければいけなかった。
「高いわね……。」
母が眉をひそめて、言った。
「ああ……。それに、最低基準を満たせなかったら無駄になる。」
アルがそう言うと、母は首を横に振った。
「無駄じゃないわよ。」
そう言って、試験の日程を確認した。しばらくして、母は思い出したように言った。
「それに、留学による出国なら……兵役は免除になるのよね。」
アルはうなずいた。
「代わりに……その家族は、国外移動が制限される。」
母の手が止まった。食卓の上には、冷めかけた芋のスープと、書類の束が並んでいた。
「それでも。」
食器を置く音がかちゃりと響き、母はアルの目を見る。
「行きなさい。母さんは、海外に出るつもりはないし。あんたの資格試験のお金も、なんとかなるから。」
そして、続けた。
「エルネアで暮らしたいって、話してくれたとき。寂しかったけど、お母さん、嬉しかったよ。」
アルは答えなかった。
留学による国外滞在中は、徴兵の義務が猶予される。だがそれは、ただ国を出られる、というだけの意味ではなかった。
帰国すれば、その義務は再び自分を待っている。研究のため日本へ渡り、そのまま職を得たとしたら──次にこの国へ戻るのは、何年後になるかわからない。
十年。あるいは、それ以上……。
そのあいだに母が年を取り、病み、死ぬことだってあり得る。
自分は、代わりのきかない時間を手放そうとしている。義務から逃げるためじゃない。そうではないはずだった。
祖父は国を守った。父も、逃げなかったからこの家にいないのだ。
母の言葉は、これ以上国に家族を差し出したくないという、願いのあらわれだったのかもしれない。
アルは言葉を発しないまま、椅子につき、音を立ててスープを飲んだ。胃に流れていく母の味が、何故かいつもより冷たく感じる。
ふと、机の上の受け入れ内諾書を見た。そこには確かに、自分の名前があった。
それは、未来が初めて紙になったものだった。しかし同時に、失う時間の輪郭でもあった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。