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間の時間【3つのお題に空想のひらめきを第27回】

引っ越し屋を決めるまでに、三社から相見積を取った。

電話とメールのやり取りが続き、荷物の量を伝え、日付を確認し、条件を詰めていく。ひとつひとつの手続きに、少しだけ心が疲れた気がした。気づけば一週間、現実の時間も、頭の中の時間も、淡々と過ぎていた。

やっと決まった業者は、今日の朝いちばんに来ることになっている。段ボールは昨夜のうちに積み上げた。台所にはもう、マグカップがひとつ残っているだけ。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。天気は悪くなさそうだった。

玄関脇に置いたクリアファイルには、契約書の控えや、見積書、退去立ち会いのメモがまとめて挟んである。自分の字で書いた名前が、何度か目に入った。


名字は、何度か変わった。書き直すことにも慣れた。でも、下の名前だけは、ずっと同じだ。

けれど、誰も呼ばなかった名前。

思い出すのは、小学校の朝礼で先生に呼ばれた瞬間のこと。黒板にはフルネームが書かれており、クラスの誰もが振り向いた。でも、私は立ち上がらず、うつむいて、黙って座ったまま。

職場でもそうだった。名刺にはルビを振ってあっても怪訝そうな顔で見られ、あとは自然とあだ名で呼ばれる。自分からもその通称を名乗った方が、会話は滞らないし、空気も重くならなかった。

そのたびに、名前の向こう側にいる「私」は、少しずつ影になっていった。呼ばれないままの名前は、置き去りにされた小さな光のようで、触れたくても触れられなかった。

もし触れられても、きっと痛むのは指先じゃなく胸の方だ。

楽しく送れるはずだった人生は、その名前の向こうに置いたまま、いつのまにか時間だけが流れていった。

あれは……昔読んだ、童話だったろうか。

少年は十四歳だったかの誕生日に、試練を受けるために洞窟へ行く。その試練を乗り越えて、自分の「真実の名」を得る──。そんな話だった気がする。

名前は、本当はそれだけで十分なはずだった。他人と区別するための記号で、仰々しくなくても、華々しくなくても、その役目を果たせばいい。

それでもあの日、朝礼で呼ばれたとき、私は立ち上がらなかった。あの名前で呼ばれた先に立つ自分を、どうしても思い描けなかったからだ。試練を越えたあとの人生と、その名が重なる感触が、まだなかった。


引っ越し当日の朝は、不思議だ。

この部屋では、もう誰も私を呼ばない。新しい場所では、まだ誰にも呼ばれていない。名前が、どこにも属していない時間。

退去の立ち会いまで、まだ少し間がある。コーヒーを淹れて、窓を開けると、外の音が少しだけ近づいた。通りに人の影も車の姿もなく、風が透き通って入ってくる。

時間がほどける朝、という言葉が、ふと浮かぶ。苦い香りに溶けてゆく思考と心地よさが、身体の中で共存している。

今だけだ。

この、名札も、呼び声もない「間の時間」は。

段ボールに入れなかったものは、いくつかある。捨てると決めたわけでもない。持っていかないと決めたわけでもない。ただ、そこにあるのは、自然に残ったものだった。


インターホンが鳴る。引っ越し屋さんだろう。

私はマグカップを流しに置いて、玄関へ向かう。

カウンターの上に置いてあった、段ボールの側面に行き先を書くためのマジックが視界を横切る。まだ宛名を書かなくてよい朝は、思ったよりもずっと静かだった。

ここでもなく、次でもない場所に、名前だけが一足遅れて立っている。名乗る必要は、まだない。

ドアを開けると、朝の光が、少し強く差し込んできた。それは、追いかけても帰らない光だった。

でも、不思議と、心は軽かった。

明日の朝の光の中に、真実の名がまだなかったとしても。
新しい生活には、私自身がそこにいる。



※以下の企画に参加させていただきました。

🍊第27回 3つのお題
🎈お題①:「時間がほどける朝」
🐾お題②:「誰も呼ばなかった名前」
⏳お題③:「帰らない光」

片桐 みかん さまの記事より引用

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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。