湯気とおでんと氷の音【せりふ三題噺 / 爆弾低気圧マティーニ六法全書】
竹井、河野、藤原の三人は、外で飲む計画をあっさり取り下げた。
電線が鳴り、窓に風が叩きつけてくる。こんな日にタクシーなんか捕まるわけがない。爆弾低気圧が街をひっかき回している以上、出歩かずに大人しくしているのが正解だ。
きっかけは、藤原の一言だった。
「……もう、飲む機会も少なくなりますね。」
雨脚が強まる。藤原の声は、いつもより少しだけ静かだった。
「まあ、みんな忙しくなるしな。」
竹井が笑って応じる。河野も短くうなずいた。
「だな。お前はいったん、田舎に帰るんだろ。」
講義では毎日のように顔を合わせたし、ことあるごとに飲み会も開いたが、それぞれの道を歩く時期が来たというわけだ。
「仕方ないな、今日は近いから藤原んちでいいか?」
「まあいいけど。あんまりうるさくできないですよ。」
「じゃ、いつものルールで。ほら。」
竹井と河野が財布を開く。黙って紙幣を受け取る藤原。
その手つきは慣れていて、でも、どこか名残惜しそうだった。
* * *
藤原の部屋は、大学の近くの古いアパート。これまでにも、ふたりは何度か足を運んだことがあった。
竹井がテーブルの上を見て、口を開く。
法学部生の必需品が、鍋敷き代わりになっている。
「おいおい、六法が泣いてるぞ。」
「ポケット六法なんでね。『六法全書』じゃないんで、問題ありません。」
問題あるだろ……と思いつつも、藤原の声は、冗談にしては固かった。彼がキッチンへ向かったあと、河野が竹井に耳打ちした。
「あいつほんとは、院、行きたかったんだってよ。でも、家の事情でな……。」
竹井は口をつぐんだ。
六法が鍋敷き。諦めた夢というのは、生活の中でこうして沈むのだろうか。
三人は、普段から互いを名字で呼び、踏み込みすぎない。単位やバイトの話はするが、恋愛や悩みごとには触れなかった。彼らの場合、遠すぎず近すぎない、これくらいの距離感がちょうど居心地がよかった。
藤原が敬語混じりで話すようになったのも、竹井と河野が、それぞれ留年、浪人してるのを聞いたあとだった。「年上には敬語」という実直さが何となく藤原らしい部分なのか、それすらも曖昧だ。
竹井は、買ってきたチューハイとビールの缶をナイロン袋から取り出す。缶は「早く飲んでおくれ」と言わんばかりに部屋の暖房で汗をかいていた。まだしばらく、冷蔵庫に入れておいた方がよさそうだ。
「ところで、一人暮らしの家にこんな急に来て、ちゃんとした食いもんが出てくんのか。」
「お前が言うなよ。いつ行ってもカレーばっか出しやがって。」
「河野こそ、家遠いんだよ。行くの大変なんだから大学の近くに住めよ。」
軽口を言い合うふたりに、藤原が声をかける。
「材料買ってあった、おでんしか作れないですけど。いいですか?」
意外だった。
それが「彼らしい」かはもちろんわからないのだが。
* * *
湯気の立つ土鍋。あたりを包む、出汁の匂いがやけに沁みる。
「おでんなんか、作れるんだな~。」
「子どものころは、こんなもん飯のおかずになるか! と思ってたけど。今はマジで最強の料理だと思うわ。」
ふたを開けると、小さな歓声があがる。つやつや光る卵、こんにゃくに煮込みちくわ。しみしみの大根。巾着餅も、はんぺんもある。
普段の学食の味に慣れた彼らには──鍋のふたで揺れる水滴よりも、垂涎が落ちる気配の方が早そうだ。おでんが六法の上に君臨している姿は、贅沢の極致だった。
「母の、得意料理なんですよね。牛スジがうまいんですよ。」
藤原が、目を細めながらしみじみと言った。
「いいじゃん。実家に戻ったら、また作ってもらえるんだろ。」
「……そうだと、いいんですけどね。」
力なく笑った藤原を見て、竹井は「また余計なことを言ったか」と目をそらした。小難しい顔でそのやりとりを見ている、河野。
テレビの音を抑えて、三人交代でミニこたつに足を入れる。
笑えるくらい狭い。けど温かい。
「めちゃくちゃうまかったー。あったまった。」
「牛スジ、すでに仕込んでたんだな。柔らかかった。」
「最後にうどんを入れる案、よかったですね。出汁がすっかりなくなりましたよ。」
竹井が缶ビールを手に取って傾けたが、もう何滴も残っていなかった。
「今、うちにはウイスキーとジンくらいしかないですけど……。」
藤原が言いかけて、躊躇する。と、同時に、河野は棚の隙間でほこりをかぶった薄いハードカバーが目に入った。「スタンダード・カクテルの世界」と名を冠するその本は、角がすり切れている。
河野がにやっとする。
「なんだそれ。いい趣味だな。」
藤原は耳の先まで赤くしながら、本を取り出した。
「……マティーニなら今できます。レモンがないので、代わりにみかんの皮でいいですか?」
おでんよりもはるかに意外すぎて、一瞬静かになる。
次の瞬間、ふたりの顔がほころんだ。
「最高かよ。」
「家でマティーニ出すやつとか、普通いないぞ。」
キッチンで氷を割る音、金属が触れ合う音。
藤原の手つきは、滑らかだった。
戻ってきたグラスには、薄く冷たい透明。
みかんの皮をひねると、柑橘の香りがほわっと広がった。
「グラスふたつしかないんで。きみたち、飲んでください。」
一口飲む。
思ってた以上に、ちゃんとマティーニだった。
「……おお、うめえ。」
「店、出せるんじゃないか。」
竹井と河野が大げさに褒めると、藤原はふっと笑った。
熱いおでんと、冷たいマティーニ。ちぐはぐで、妙に愛おしい。
オリーブはなかったけれど、このときのグラスには、ひとつまみの夢がそっと沈んでいた。
外の風音はまだ荒れている。……それでも、部屋の中は笑いとやわらかな温度で、どこかあたたかく尊いもので満たされていた。
* * *
駅前の風は、相変わらず冷たい。──あの夜から、いくつ冬が過ぎたのか。
ビルの谷間に小さな灯りがぽつんと浮かんでいる。
「ここだってさ。藤原が任されてる店。」
河野が、スマホ画面をポケットにしまいながら言う。
ちらつく雪の中、竹井は手袋を外して白い息を吐いた。
「……本当に、店任されるとこまで行ったんだな。」
「お袋さんが亡くなってから、何年だ? めっちゃ修行したんだろうな。」
失敗や迷いを経て、みんなそれぞれ地に足をつけて歩いてきた。
看板には、控えめな筆記体で店名。その端に、小さなオリーブの絵。
「なあ、マティーニ久々に飲ませてもらおうぜ。」
「冬限定で、おでん出してたりしてな。」
笑いながら、ふたりは細い階段をゆっくり上っていった。
足音が薄い雪に吸われ、街の喧噪が少し遠のく。
扉の向こうから、静かな氷の音がかすかに響いた。
聞き覚えのあるリズム。
「……顔、出していいよな?」
「そりゃ、いいだろ。」
互いにうなずき、小さく息を整える。
ドアノブに触れる瞬間、ふたりは目を見交わす。
笑うでもなく、泣くでもなく。ただ、その先に続く時間と夢を、そっとかき混ぜるように。
扉が開く。やわらかい光と、凛とした冷気が溶けている。
柑橘の香りが、ほんのわずかに漂っていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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