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記憶を拾いに【創作】

昼の光が、すりガラスの屋根越しに商店街を染めていた。

かつてあふれていた子どもたちの声も減り、週末でも、この通りの人影はまばら。いまは近くの古い遊園地のおかげで、かろうじて灯りが消えずにいる。

僕は紙袋を抱え、店のシャッターを閉めた。みぞれがいなくなって二日。店の奥の毛布には、まだ毛が残っている。あの子は、「彼女」がかつて拾ってきた白猫だ。

「この子、親がいないんだよ。」

そういって、申し訳なさそうに抱きかかえていた姿を思い出す。うちの古本屋の売り上げを考えると、僕に飼う余裕があるとは言い切れなかった。

けれど僕が引き取らないと、彼女はきっと、里親を探してかけずり回るだろう。そういう性分の人だと、そのころにはもう分かっていた。


まず訪ねたのは、八百屋。段ボールが並ぶ店先で店主に声をかける。

「白い猫、見ませんでした?」
「大和田書店の看板猫か。今日は見てないな。いなくなったのか。」
「ええ。もし見かけたら──」
「知らせるよ。ま、待ってりゃそのうち帰ってくるんじゃないか。」

みぞれは、何度かふらっと姿を消すことはあった。屋根の上にのぼって降りられなくなったみぞれを、ちくわでおびき寄せて捕まえたこともある。

隣の屋根から手を伸ばして抱き寄せるときに、思いっきり顔を引っ掻かれたっけ。

いなくなって、心配かけて。いつの間にかまた戻ってきて。困った猫だ。


彼女がはじめてこの商店街を訪れたときを思い出す。少し汚れた格好をして、うちの古本屋にふらりと入ってきた。聞けば、身寄りも行く宛てもないと言っていた。

「古本の、なにがいいの?」と純粋な疑問をぶつける彼女。用意していたわけでもないのに、自然と答えが口からこぼれた。

「そうだな……。元々は誰かの物語だったものが、もう一度呼吸ができる。そこが良いかなと思うよ。」

その日から、ときどき店の奥で本を読んでは、小さく笑う声が聞こえるようになった。


猫の姿はない。パン屋にも、惣菜屋にもいない。商店街のシャッターも間もなく閉まり始める。探すほどに、空気が薄くなる。商店街のざらついた静けさが胸に積もった。

犬と違って、一緒に散歩に出かけるわけでもない。とはいえ元野良猫を、家にずっととどめさせておくのも難しい。みぞれはことあるごとに、飼い主の目を盗んで脱走を試みた。しかし、行きそうな場所に心当たりはない。


あの日も、彼女はこの道を歩いていた。手提げ袋を揺らしながら、ガラス越しに新鮮な野菜を確かめて。

「地元のもの、ちゃんと選ばなきゃ。私が前に住んでたところじゃ、こんな新鮮な生鮮食品は手に入らなかったよ。」

彼女は少し笑った。選んだほうれん草を袋に入れながら、言う。

「今日は、お味噌汁にしようかな。亮くん、だしは昆布派だろう?」

その声を思い出すたび、僕の足は止まりそうになる。

一緒に食べるわけじゃない。ただ、余った分を持ってきてくれるだけ。でも、それで十分ありがたかった。

この近くで、住むところを借りたと聞いていた。しかし、初めて見にいった日には、すでにその家に彼女はいなかった。行き先を先に聞いていても、きっと追うことはできなかったと思うけれど。


夕暮れが近づき、アーケードの蛍光灯がひとつ、またひとつ灯る。あきらめかけたころ、魚屋の方から声がした。

「おーい、亮くん! これ、お前んとこの猫じゃないか?」

氷の桶の前、白い猫がアジを前足で押さえつけていた。店主が苦笑しながら、氷の上を見せる。

「まったく、何匹かやられちまったよ。……しかもな。」

アジの札の横には、小さく「国産」の文字。

「国産ばっか、狙いやがってよ。」

その言葉に、時間がわずかに揺れた。猫の金色の目が、彼女の笑顔と重なる。

──せっかく食べるんだったら、国産じゃなきゃね。

僕は息を呑んだ。探していたのは、猫の影だったけど。きっと、それだけじゃない。

「すみません! 弁償します……。」
「ま、いいさ。あいつ、賢いんだな。」

近づいても、みぞれは逃げない。まるで、ここなら見つかると分かっていたようだった。

僕は、そっと猫を抱き上げる。泥と魚の匂い、温かい体温。腕の中で、猫が喉を鳴らす。肉球の部分が、微かにひんやりとしていた。

「もう、逃げるんじゃないよ。」

みぞれはみゃお、と小さな鳴き声をひとつ漏らす。腕の中で震える体が、確かにここにいると主張している。取り戻したのは、猫だけじゃなく──失わずに済んだ、あの日のぬくもりだった。

かつての日常の匂い。彼女の息づかい。選ぶ癖。小さな声。思い出せなかった、音と手触り。

通りに出ると、遠くで遊園地の観覧車が、薄い夕暮れの空に影を落としていた。ゆっくりと、回っている。じっくりと見てはいなかったけど、きっと、昔からそうだった。

風が頬を撫でた。その冷たさに、ようやく気づく。静かな街の灯りの中で、僕はみぞれを胸に抱いたまま立ち止まる。

今日はやっと、ひとつだけ拾えた気がした。

彼女の、生きた証を。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。