ミルクティーの海【創作】
鏡の前で、髪を結び直すふりをしながら、私はさっきの言葉を反芻していた。そばでは、さっき淹れたミルクティーが、カップの中ですっかり冷めている。
「なんで、わかってくれないの?」
言ったとき、自分でも少し驚いた。責めるつもりはなかったのに、強い口調になっていた。
リビングでは、彼が。一定のリズムでキーボードを叩いている。仕事の音だ。その音は、私の話が終わるのを待つように、断続的に続いている。
「聞いてる?」
そう声をかけると、彼は一瞬だけ手を止めて「聞いてるよ」と言った。けれどそれは、会話に参加するための声ではない。反応がなかったときの私の態度を、先回りして封じているだけのようだった。
私はソファに座り直して、続きを話した。
今日、理不尽に警官に呼び止められたこと。電車で、歩きスマホのおじさんにぶつかられたこと。コンビニで、外国人に順番を抜かされたこと。どれも小さい。でも、その小さいのが、全部ちゃんと嫌だった。
「それでさ。なんかもう、どうでもよくなるっていうか……。」
そこまで言って、期待して彼の方を見る。そこに求めているのは、共感の顔だ。でも、彼は相変わらず、画面を見たままだった。
「……ねえ。」
「うん?」
「どう思う?」
彼は少しだけ間を置いて、「そりゃ、大変だったね」と言った。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、すっと冷えた。そこからちりちりとした痛みと、暗い感情が静かに立ち上がる感覚が続く。
違う。そうじゃない。大変だったね、じゃない。
私は、そう言ってほしいわけじゃない。
「それ、ひどくない?」とか、「それは嫌だよね」とか、そういう、同じ方向を向いてくれる感じ。私が感じた「嫌」という荷物を、そのまま一緒に持ってくれる感じ。
私は、彼の方に向き直った。
「なんかさ。」
言葉を選ぼうとして、うまくいかない。
「……なんで、わかってくれないの?」
彼の指が止まる。さっきより、少し長く。
「わかってるつもりだけど。」
そう言って、彼はようやくこっちを見た。その顔を見て、少しだけ、怖くなる。
ああ、この顔、知ってる。
このあと、喧嘩になるときの顔だ。彼はきっと、このあと、「押しつけていること」で私を責める。そして私は、「じゃあ誰かに何かされても、助けてくれないの」と彼を責める。
そんなことが、何度となく続いていた。彼はいつも、喧嘩になると急に言葉が増える。でも、そのたびに、いまの話から少しずつずれていく気がしていた。
私は、「今この瞬間を、共感してほしい」。
ただそれだけのことしか言っていない。
でも、引けない。だって、これは押しつけじゃない。
わかってほしい、それだけだ。
「違うの。」
私は少し身を乗り出す。
「そういうことじゃなくて。私が嫌だな、って思ったことを、一緒に嫌だって思ってほしいの。」
言いながら、これが、彼にとってはどれだけ重たい要求か、どこかでわかっている。
違う人間だから、同じレベルでの共感は難しい。そう言われたことがある。負の感情を延々ぶつけられて、強いストレスを感じる。そう吐露されたこともある。
彼は、話してほしいときに話してくれず、喧嘩のときだけ饒舌になる。
でも、それでも。
カップを持つ、私の手が少し震えた。
それができないなら、どうやって一緒にいるの?
彼は、しばらく何も言わなかった。マグカップに入ったコーヒーをほんの少しすすったあと、ゆっくり息を吐いて、眉間に指を軽く当てながら言った。
「……それ、結構きついよ。」
彼は一度言葉を切って、少しだけ視線を外す。
「……なんていうかさ。同じくらい嫌だって思えって言われると、無理してる感じになる。」
きつい……。
その言葉が、思っていたより深く刺さる。私は一瞬、なにか言い返そうとして、やめた。口が勝手に、開いては閉じを繰り返す。
「それで頷くの、俺にはできない。」
彼のその言葉は私の頭の外で流れていて、近くにまで降りてこない。
代わりに。
どうでもいい記憶が浮かんだ。
最初に待ち合わせた日のこと。電話で私が、彼の仕事帰りにあわせて呼び出した夜。
駅のホームで、私は自販機でペットボトルのミルクティーを二本買って、待っていた。
自分が好きだから、きっと好きだと思った。
こんなに甘くて、こんなにちょうどいい味のもの、嫌いな人なんていないと思っていた。
彼は、それを受け取って、「ありがとう」と言って、普通に飲んだ。
「俺、紅茶って、好きじゃないんだけど。」
あとから、そう言った。そのときは、軽く流した。そのとき飲んでくれたし、いいやって。
どうして飲んでくれたの、って聞いたとき。「うれしそうだったから」って言ってた。
でも、もしかしたら、あのときからずっと、私は「飲めるでしょ?」って渡し続けていて。
彼は、「飲めなくはないもの」として受け取り続けていたのかもしれない。
でも。
じゃあ、ミルクティーは返すね、って渡してくれたら私が飲んであげられる。コーヒーを飲もうよって提案してくれたら、ブラックでなければ私も一緒に飲める。
飲み切れないミルクティーが、どこかで海みたいになってしまう前に、どうして。あなた自身のことを共有してくれないの?
泣いて、面倒なやつだと思われるのはいやだ。一緒にいられなくなるのも、いやだ。
私は、伝わらなくても、伝え続けるしかない。たぶん、それ以外のやり方を、もう知らない。
頭の中と現実の景色が、わずかに混じる。私は手の中のミルクティーを見つめていた。
ここにコーヒーを入れて飲んだら、どんな味がするんだろう。
甘いままなのか、それとも少し、苦くなるのか。
どうせ試す勇気もないくせに、私はそんなことを考えていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。