十七人の集合写真【第八話 半年】
第八話 半年
アルが日本に来て、半年が過ぎようとしていた。
逢坂や松本の英語はまだまだだったが、アルの日本語は目に見えて上達していた。松本が以前から在籍しているカメルーン出身のパトリスへちょっとした依頼をしたいとき、アルが翻訳し伝えるという、橋渡しのようなことまでやってのけるようになっていた。
十月から、五十嵐研の研究生として受け入れられたアルも、まだこの時点では正規の学生ではない。四月以降、研究生として在籍しているあいだに博士課程の留学生枠で出願し、試験を突破しなければ大学院生とはなれないのだ。
逢坂は、自席で今年度の理生命科学研究科の募集要項を確認していた。来年出る要項も、おそらく同じようなものになるはずだ。
受験の時期は年二回。来年度の出願のタイミングは、今後の五十嵐先生とアルとの研究の進捗によって変わってくる。
そして、博士課程を通常期間の四年間で卒業するためには、学術論文をその間に書き上げ、査読を経て採択・出版までもっていかないといけない。「日本で研究者として働く」というアルの希望は、そのあとでようやく叶うことになる。
しかし彼には、安心材料もあった。国費奨学金という強力な後ろ盾だ。非正規の研究生である期間、および博士課程期間の授業料は全額免除となり、かつ奨励金として月に二十万円に届かない程度の生活費が支給される。
彼が勝ち取った奨学金は、審査も厳しく、提出書類も膨大だった。それには、そうなるだけの理由があったのだ。
あれだけ熱心なアルなら、きっと大丈夫。逢坂はそう、自分に言い聞かせていた。彼は研究生で、来ないといけない時間帯があるわけでもないのに、誰よりも早く来て、遅くまで残る日も多かった。
それでも、絶対は存在しないのが世の常だ。優秀だからといって、すべてがうまくいくとは限らない。
資金の問題はなくても、手続きの漏れに家族の事情。急な音信不通。最後まで残れない、卒業できない留学生もいる。この大学に異動してくる前の五十嵐研でも、そんな例がいくつもあったと聞いた。
研究室に人が増えるのは複雑だけど、紙だけが残って、人だけいなくなるのも嫌だった。逢坂は思わず、募集要項の印刷ボタンをクリックしていた。
来年度なのに。自分が焦っても、仕方がないのに。
苦笑しながらも、逢坂は印刷ジョブをキャンセルせず、プリンタはそのままごうごうと用紙を吐き出し続けていた。
* * *
年度末が近づいたころ、研究室メンバーでのちょっとしたパーティが開催されることになった。参加は任意だったが、主催である助教の桜庭先生から、松本と逢坂に声がかかった。
「研究室で、女性は私たち三人だけでしょう。ぜひ来てくれればうれしいわ。」
松本は、施設に入っている親の関係で、参加を見送らざるを得なかった。逢坂も迷ったが、「当日何時に来て何時に帰ってもいい」というゆるい形式での案内に惹かれて、参加することに決めた。
桜庭先生が自ら家を会場として提供し、食べものを持ち寄るスタイルでのホームパーティだった。
結局、五十嵐教授や共同研究の先生方は来られず、学生や職員中心の会になったようだ。逢坂が行ったのは夕方の少し遅い時間だったが、留学生組四名と、主催の桜庭先生、そして今年度入ったばかりの、技術スタッフの新井がいた。
通された部屋は、研究者の議論の場というよりは、和やかなムードの集会のような空気感。低い丸テーブルの上にはところ狭しと雑多な食べ物が並んでいた。手作りのキッシュ、スパイシーな豆菓子、日本酒の瓶、コーヒー。
「お疲れさまです。」
みなの視線が一斉に逢坂へ向く。アルは、輪の中心寄りにいるように見えた。アルと、パトリスが議論をしていたらしい。
「なんの話してたの。」
この日は休日だったので、逢坂は翻訳機は持っていない。研究室の資産を持ち出すわけにもいかなかった。そのときの話題を、パトリスが英語で説明してくれた。
「日本に最近、熊が出ると聞いて。」
パトリスは少し困ったような顔をしていた。
「出たらどうするか、と話していました。」
「どうするって。逃げるしかないんじゃないの。」
逢坂も、彼に合わせて戸惑いの表情を浮かべる。近辺で出たという話は聞かないが、もしものときに備えておいた方がいいのだろうか。
「戦うべきです。」
アルは、スマホを見せて言った。彼の国の、とある部屋の画像らしい。石のような冷たい色の壁。そこに、鉄の鎧や近接武器、銃火器などが整然と配置されている。
「祖父から譲り受けた、武具です。小さいころから、勉学と同じくらい、鍛錬に励んできました。」
逢坂はその言葉を聞いて、胸にちくりと刺さるものを感じた。空港に迎えに行ったとき、アルの側頭部に見た傷を思い出す。
宗教観の違いからだろうか。パトリスは「暴力はよくない、平和的解決をはかるべきだ」と控えめに主張している。アルはそれを聞いて、「これは良いディベートのテーマです」と熱くなっていた。それは彼が、意見が違うときによく言う言葉だった。
「あなたたちは思うところあるの?」
そばにいたふたりにも声をかける。アメリカ出身のスティーブンは「熊が出てから考えます」と言い、ドイツ出身のヨナは「他に楽しい話をしましょう」と言っていた。
逢坂もカーペットの上に腰を下ろした。熊が出た話だけで、これだけ意見がある。
国や文化の違い、宗教や意見の違い。五十嵐先生は「研究者は想像力が命の次に大事だ」とよく話すけれど。ふとした会話の中にも、垣間見えるその人の考え方がある。
でも、ここの研究室の人たちは、みんなやさしいし、思いやりがある。意見が違っても、喧嘩にはならない。そんな光景を、桜庭先生は、コーヒーを飲みながらあたたかく見守っている。
逢坂は、普段職場では仕事にかかわる話しかしない。時間給で雇われていると、少しの時間も無駄にできないと思ってしまう。こうやってたまの機会に、交流をするのも悪くない。新井が、逢坂に話しかけた。
「逢坂さんが来てくれてよかったよ。日本語で話せるのが桜庭先生くらいだったから。」
「そうですねえ。でも、アルとかヨナも、少しはわかるんですよ。」
技術の新井は、端の方でぼそぼそとお菓子をつまんでいた。共同研究の職員も午前中に来ていたが、早々に引き上げていったという。
「パトリス、それなに?」
「プランテーンのチップスです。」
プランテーンは、アフリカでよく栽培される、見た目がバナナのようでありながら加熱調理して食べる果物だという。それは意外なほど、日本人である逢坂の口にも合った。バナナだよねと聞くと、バナナじゃないですと彼はこだわった。
「アルはお酒、飲まないんだね。」
「飲みません。」
アルはコーヒーやお茶を飲んでいた。普段何を食べているの、と尋ねると、コンビニのから揚げ弁当が好物だという。寮から大学まで遠いのに、毎日歩きで通っていると聞いて感心した。
「ヨナのフルネームってヨナス・バイスよね。カタカナであらわすとヨナス・ヴァイスの方が発音に合ってるのかな。」
「どうでもいいですよ。」
「どちらでも」を「どうでも」と言ってしまうところが、微笑ましい。続けて、ヨナに「『ニホン』と『ニッポン』はどう違いますか」と尋ねられた。それに対して、逢坂は「どちらでもいいよ」と返したが、自国の呼称が複数あることにあらためて気づかされ、妙な感じだなと思った。
「スティーブンはよく旅行に行くんだね。」
「この間も行ってきました。あとで、写真を見せます。」
そうだった。逢坂は、桜庭先生がパーティの招待メールに書いていた言葉を思い出す。
「今年度にあったことをスライドで発表してください。これは仕事ではなく、遊びです!」
事前にデータを先生へ送っておき、当日各々が簡単に発表するようにと。いかにも、研究者らしい思いつきだなあと、そう思っていた。
* * *
部屋を暗くして、スライドが壁に投影される。先発の発表は技術の新井だった。日本語発表で、休日にDIYした棚や工具箱を写し、淡々と説明する。要所要所で、桜庭先生がみなに英語で翻訳し伝えた。
職場でも、新井が機器やハードディスクを黙々といじっている姿をみなはよく目にした。口数は少なく、あまり誰とも話さない。だが、今回の集まりに参加するということは、不器用なだけで人と触れ合うのが嫌いというわけではないのかもしれない。
次は、スティーブン。北海道に行ってきたと、雪景色の写真を見せていた。パトリスは、雪の降る写真を興味深そうに眺めている。彼の出身地では高山地域以外では降らず、実際には見たことがないそうだ。
「そういえば今年は、大学周辺は降らなかったね。去年は積もったんだけどな。」
逢坂が言うと、アルが続けた。
「でももうすぐ、日本では桜が降るでしょう。」
「あ、いいこと言うじゃん、アル。」
さらにその次は、ヨナの発表。彼は夏の期間、自国のドイツに戻っていたらしく、石畳の道や古い教会の写真を投影した。
早口で話すヨナの英語は、逢坂はとても追えなかった。でも、なんとなく理解はできる。語っていたのはきっと、ライプツィヒという街がいかに素晴らしいか。すらすらと流れる英文の中に、メンデルスゾーンやバッハ、森鴎外の名が聞こえた。
「次は、逢坂さんね。」
椅子の方から、桜庭先生の声がした。
「えっと、桜庭先生は?」
「私は、スライド作るの忘れちゃった。」
彼女は椅子に座り、いたずらっぽい顔で微笑む。ずるいなあ、と思いつつ、逢坂は置かれたPCを操作し、自身のスライドファイルを選択した。
たどたどしい英語で、広島旅行に行ったことを話した。ひとり旅だった。平和記念碑と、厳島神社できれいに撮れた写真を紹介した。
アルが、真剣な表情で見つめるのを感じて、逢坂は少し緊張した。
* * *
「じゃあ、最後はアルね。」
アルの発表で投影されたのも、自国レルメドールでの写真だった。ただし彼の場合は、帰省ではなく日本へ来る前のものだ。
アルの生まれ育った場所。そう思うと、少し身が引き締まる。ヨナやスティーブン、パトリスのときも、受け入れ手続きは同様に逢坂が担当した。
私費留学生でない、国費留学生の受け入れはアルが初めてだった。とにかく手続きが煩雑で、書類も多く苦労した。
かたかたと静かなプロジェクターの音が鳴り、スライドが少しゆっくりと逢坂の目に届く。
家や通り、目に映るそのすべてが、砂や土、石をベースに立ち上がっているような世界。写真の中心にいる、今よりも少し幼いアルの髪は、風に吹かれてそのかたちを変えていた。
無味乾燥というわけでもなく、なぜかその地に温かみを感じた。発表者の瞳の光が、いつもより輝いているように見えたからだろうか。
写真の数は、他の誰より多かった。
干上がりかけた湖に、人のまばらな夕暮れの市場。薄い茶色の世界をゆらりと分断している川。
アルが見せた写真の中に、レルメドールの大学の研究室にある水槽が写っていた。銀青色の細い魚が一匹、水槽の中央にぽつんと佇んでいる。それは尾びれだけがかすかに透けて、鋭い光を返していた。
動画でもないのに、あてもなく水槽を往復する姿が目に浮かぶ。五十嵐研の水槽にいる魚と、同じ種類だと気づくまでに時間を要した。
「一匹だけなんですね?」
誰かが言うと、アルはにこっと笑う。髭があっても、笑うと彼は子供っぽい顔立ちになる。そして、言った。
「贅沢ができないんですよ。」
ほんの一瞬、場に沈黙が落ちた。振り返ると、アルの写真の一枚一枚の景色に、「水」がそばにあった。
最後に、アルはレルメドールの電車で乗り継ぎに失敗し、駅で立ったまま寝て過ごした話を披露した。日本へ向かう飛行機も乗り継ぎがあったので、そのときは細心の注意を払ったと。
みなが笑う。
発表を終えたアルが、逢坂の隣で腰を下ろした。
「本当、来れてよかったね。」
日本語で、小さな声で言葉をかけた。伝わったかどうかはわからないが、アルはこのときも笑顔を返した。窓の外はすっかり暗くなっており、会もお開きの時間が近づいていた。
もう半年になる。アルが来てから。
「そうだ、桜。」
逢坂の声のトーンが上がる。さっきの発表のときの、アルのひとことで思い出した。
「研究室では、四月にみんなで集合写真を撮るんだよ。桜の下で。」
アルは、研究室に、去年の集合写真が掲示されていたことを思い出す。十名程度、映っていただろうか。桜の前で写真を撮る。その日がついに、近づいていた。
「今年は、みんな揃うといいな。去年も一昨年も、先生の出張や学生さんの風邪が重なって、全員参加で撮れたことがないから。」
言いながら、Webサイトへの写真のアップロードの作業がふと頭をよぎる。仕事のことをつい考えてしまう、逢坂は自分の悪い癖を追い払い、指折り人数を数えた。
今、研究室の在籍は十五人。四月から韓国の研究生が来ることになっており、中国の大学院生の入学も決まっていた。全員揃えば、合計で十七人の集合写真になる。
「いいですね。」
アルは微笑み、自身の鞄からケースに仕舞われたカメラを取り出した。年代物だろうか。古い型であるものの、汚れもなく状態は良さそうだった。
「祖父のカメラです。これで、桜を撮りたい。」
その声のトーンだけで、家族との愛情が読み取れるようだった。逢坂は静かに答える。
「撮れるよ、きっと。」
* * *
帰り道のことだった。
「じゃあまた、研究室でね。」
桜庭先生が手を振っている。
「アル。駅まで、逢坂さんを送って行って。」
「先生、私子どもじゃないんで大丈夫です……。」
「駄目よ。熊が出たらどうするの?」
それを聞いて、逢坂は近くにいたアルに尋ねた。
「……どうする?」
「もちろん、戦います。」
武器もないのに。逢坂は思わず笑った。そうだ。アルは今まで、戦って乗り越えてきた。だから今、ここにいるんだった。
逢坂は、頼もしいボディガードとともに、桜庭先生のマンションをあとにした。
外はまだひんやりと涼しかった。髪がなびくほどじゃない、しなやかな風がある。春がこの場所に、近づこうかどうしようかと、手探りしているような季節だった。
靴底が、アスファルトを鳴らしている。ふたりなのに、その音は重なってひとつのように聞こえた。不思議に思って隣を見ると、アルは逢坂に合わせて、歩幅を少しだけ小さくしていた。
その道すがら、アルは思い出したように、また鞄から何かを取り出した。それは、本だった。逢坂がプレゼントした水族館の本。
「この本、全部見ました。日本では、本当にこんな大量の水を維持できるんですね。」
「持ち歩いてたんだ!」
決して軽くはなかったはずだ。彼の持っている鞄は、研究室でも見たものだった。いつもあそこに、入っていたのだろうか。
「施設は停電もしない。海の魚を、生きたまま近くで見られるなんて!」
アルはまた少し、早口になっていた。逢坂が発音の聞き取りのために耳をそばだてたのを見て、アルは話すスピードを少し落とした。
「見たら、きっと感動すると思います。」
それを聞いて、言葉が反射的に出た。
「明日も休みだよね。もしよければ、私が連れて行ってあげようか?」
「本当ですか! マジで嬉しいです。」
「マジで」は共同研究の職員がふざけて教えた日本語だった。でも今の言葉は、本心でアルの口から出た、喜びの表現だっただろうと思う。
言ってから逢坂は、普段仕事ばかりの自分が、自然と休みの約束を口にしたことに驚いていた。
「しかし来週、研究報告会があります。そのプレゼンの準備をしたいんです。」
「忙しいんだね。じゃあ来月にしようよ。」
集合写真撮影のある、次の週の休み。水族館へ行こうという話に決まった。
「じゃあ、カレンダーに入れておくね。」
水族館へ出かけることが、研究の一環か、そうでないかの話は出なかった。
地下鉄の入口で手を振って別れる。逢坂はカレンダーを見ながら、地下鉄に揺られていた。かたんことん、と響く音に、思考が重なる。
その日の天気と気候、着ていく服について、ぼんやりと思いを巡らせていた。クローゼットを開ける音を聞くのが、久しぶりに楽しみだった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。