錆びた月の少女【創作】
空に浮かぶ月が、ある夜を境に赤茶け、まるで鉄がゆっくり錆びていくかのように表面を崩しはじめた。
ニュースでは専門家も原因不明と告げ、街には不安とざわめきが広がる。
時を同じくして、人々は睡眠中に不可解な体験をするようになる。
「夢の中で、月が落ちてくる」
──多くの者が同じ悪夢に悩まされた。
人によってパターンは微妙に異なり、夢の中で、ある者は本当に月が頭上に落ちてきて家族を失う光景を目の当たりにし、ある者は戸惑いながら月から逃れようと走り続けた。
また、別の者は月の影に飲み込まれ、声が出せなくなったという。
──それぞれの夢に、ほんの少しずつ違う絶望の色がにじんでいた。
悠は、これまでの人生の経験も浅く、普段であれば見る夢のパターンは限られたものだった。通っている幼稚園の友達の夢や、お母さんと買い物に行く夢、おねしょして叱られる夢くらいのものだ。
そんな彼は、人々が月の落ちてくる夢を見る中、少し違った夢を見ていた。
* * *
赤錆の月の下、少女が立っている。
小さな体に、鉄のブラシを握りしめていた。
ブラシの毛は細く光を反射し、こすられた月の表面はわずかに銀色を取り戻す。赤錆と銀のコントラストが、不思議なリズムで揺れていた。
悠には元々、眠ると、実体験と勘違いするほどの夢に引き込まれることがあった。それにしてもこの夢には、現実以上に立体感があるように感じていた。
このとき、不安な気持ちも少しはあった。けれど、現実で犬を見かけたときのように、泣き出して逃げ出すような恐怖は不思議となかった。
ブラシを持つ女の子は言った。
「手伝ってくれる?」
振り返った少女は、静かに微笑んだ。月の影になって表情はよく見えないが、どうやら年のころは同じくらいのようだった。
髪をしばっている、星の形のヘアゴムが印象的だった。
悠は言葉もなくうなずき、隣に立った。同じブラシに手をかけ協力して持つ。手に伝わる微かな振動が温かく、胸の奥のざわめきが少しだけ和らいだ。
こするたび、ほんのわずかだが月の表面は光を取り戻す。
何も言わなくても、二人の動きは自然に重なり合っていた。
* * *
翌朝目覚めると、部屋の窓から見える月はまだ赤茶けている。
しかし、悠の目からは、前夜より少し柔らかい色を帯び、夜空に浮かぶ輪郭も穏やかに見えていた。
相変わらず街の人々はニュースやSNSで不安を煽り合い、科学者や天文台も原因を解明できない。絶望と恐怖が日常の端々にまで感染し、形容しがたい息苦しさがあった。
悠も、子供ながらに両親やまわりの大人たちから違和感を覚えないわけではない。
ただ、悠にとってはほとんどいつも通りの生活だった。
両親は、悠がいたずらをしたとき以外は優しいし、彼は夜に見た夢について、うっすら残るものの起きている間に意識にのぼることは少なかった。
* * *
次の夜も、悠は夢の月に立った。
ああそうだ、月の汚れを落とすお手伝いをしているんだった。
少女は黙々とブラシを動かし続ける。悠も手を動かす。言葉は交わさない。ただ光が少しずつ戻るリズムだけが、二人を繋いでいた。
こすりかけの部分の赤錆が薄くなり、光がこぼれ、月は息を吹き返すかのようだった。
とりわけ大きな錆のかたまりを落とし切ったとき、悠と少女ははじめて顔を見合わせて笑顔を交わした。
このお手伝いも、もう、終わりのような気がしていた。
* * *
朝、目を覚ますと、月の赤みはほぼ消滅し、元の月の状態に戻っているように見えた。
そして、人々も、月の落ちてくる夢を見なくなった。
今回の件について、「月の見た目が戻っていることが観測された」「史上初の自然現象の可能性がある」と報じられると、人々はほっと胸を撫で下ろした。
──そもそも、月なんて落ちてくるはずがない。
調子よく、そう口にする者もいた。
悠は、何が起こっているのかよくはわからない。
今朝、パジャマの袖に少し赤茶けた汚れがあるのを見て、夢の中で少女と過ごした時間のことを思い出すことができていた。
ふたりで協力して、月の汚れを落とすためにブラシを動かしたこと。
それは、確かな感覚として彼に残っていた。
* * *
窓辺に座り、少女は空を見上げる。
微かな傷が残る月面は、かえって美しい模様のようで、胸が温かくなる。
白い天井の下で、枕に頭を預け、少女はゆっくりと目を閉じた。
「...…ありがとう。名前も知らない男の子。」
世界は何も知らず、ただいつも通り動き続けている。
人々は一時的な現象に騒ぎ、滑稽な安堵に浸る。
けれど彼女は知っている──あの男の子と共に、ほんの少しだけ、世界を守ったのだ、と。
枕元のキャビネットには、星の形をしたヘアゴムが置かれている。
夢と現実の境界はほのかに溶け、少女の胸には小さな光がともっていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。