とら、おいで。【創作】
大きな台風が町を襲っていた。
テレビからは繰り返し警報の声が流れている。
「猛烈な風雨に注意してください」
「避難指示が発令されました」
けれど、私はただ画面の向こうの言葉をぼんやり聞いているだけだった。
何年も一緒にいた猫のことを思い出していた。
あの子は確かに、とらだ。
昔も今も、ずっと……。
かつて、失いかけていた微かな鼓動を拾い上げたのは、雨の日の夕方だった。
小さな体を病院に連れて行き、太い注射器みたいなもので餌を与え、初めて口にしてくれた時には涙がこぼれた。
あの時のぬくもりは、今でも鮮明だ。
いつからか、とらの体は少しずつ大きくなっていった。
猫は通常1年もすれば大人になり、老齢期が長い生き物だ。そんなことは知っている。
大人になったあとも、とらはどんどん体が大きくなっていった。
動物病院の先生にも理由は分からないらしい。
餌はキャットフードはやめて、業務用の海外産の冷凍鶏肉に切り替えた。
とらの「成長」は止まらなかった。
最後に見たときには、もう大人でも抱えられないくらいに大きくなっていた。
お母さんが生きていたら。お父さんが遠くにいなかったら。もしかして、何とかしてくれていたのかな。
数日前、近所で男の子が獣のような何かに襲われたと聞いたとき。
私は直感的に、とらの仕業だと理解した。
ただ、遊びたかっただけなのかもしれない。
男の子の持っているおもちゃが気になっただけなのかもしれない。
だけど。……男の子はその大切な命を失った。
その後、私はとらを見ていない。
警察や大人たちが、いつか必ずとらを仕留めに来るだろう。
私も命の危険に晒されるかもしれない。
でも、私は何もしなければならないと思っていた。
もう一度、会いたいと思った。
もう一度、優しく声をかけてあげたいと思った。
冷たい雨音が窓を叩き続ける。
私は傘も持たずに外へ出た。
足元はぬかるみ、視界は霞んでいるけれど、私は足を止めなかった。
闇の中、細い足取りで裏山へ向かう。
ふと私は、かすかな気配と、嗅ぎなれているのにどこか懐かしい……そんな匂いに気が付いた。
雨の中、私は震えながら声をかける。
「とら、おいで。」
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。