純粋な人間【創作】
網戸から秋の風が吹き込むたび、鼻先に運ばれてくる匂いが変わる。
落ち葉に湿った土、どこかで割れた木の実。里の匂いがゆっくりと、降りてきているようだった。
食卓を挟んだ向こう側には、父と女がいた。その女は、父の後妻、もとい愛人だった。どうやら、籍を入れてはいないらしい。
表面上はにこにこと、父の隣でその場をやり過ごそうとしている女。口元だけが歪んで目尻の下がっていないその笑顔は、まるでひび割れた仮面のようだった。
傾けていた眼鏡を戻し、ぼくは思った。そもそも、なぜ会う必要があるのか。この年だ、もう「新しいお母さん」が必要ってわけじゃあない。
そして、なんとなく、匂いでわかる。
この女はどうせ、遺産目当てに決まっている。
正直言って、父は高齢だ。男前でもなければ、人間的な魅力にも欠ける。ぼくの勘をもってしても、その程度はわかる。一回り以上若く見える女に、惹かれる要素が見当たらないのだ。
「籍は、入れなくてもいいの。」
ぼくの怪しむ目を訝しがってか、財産目当てでないことをアピールしだす女。
「お父さんと一緒にいられれば、私はそれで。」
「でも、もしものときは、お父さんのお葬式には参列させてほしい。」
そんな言葉が、一番信用できない。
法律の専門家でこそないが、ぼくは関連した資格を持っている。どうにか、漂っているうさん臭さの臭気のもとを、嗅ぎつけてやろうと思った。
再婚の事実がなければ、相続権は発生しない。しかし遺言があれば話は別。葬式への参列、老齢の父の面倒を見るという実績。情状の余地……。
脳内で、知識をフル稼働させる。
遺言の話は先手を打って父に打診して作らせておけばいい。葬式はあくまで外部者としての参列をさせるべきだ。山ほどあるであろう、似たようなトラブルの事例をもっと調べておかないと。
そもそも、父が騙されやすいことは、このぼくが一番知っている。父は、純粋な人間だった。それゆえ、頭は悪くないのに、人情話にもろい節がある。
ぼくは父に対して、特別な思い入れはない。父は別に、この女とよろしくやってくれて構わない。しかし、父の財産は守らなければ。
ぼくは近々結婚をすることになっていて、もろもろの手続きが終われば守るべき家庭が生まれる。無欲な父とは違って、金はあるにこしたことはない、と考えていた。
とはいえ、付き合いだ。
ぼくは父の息子として、この女とは「これからうまくやっていけるといいですね」という顔をしなければならない。
「よろしく」とぼくが手を差しだしたとき、女は目を細めて笑っていた。本心で浮かべた笑みではない。ぼくの顔も、果たして彼女にどう映っているか。
化かし合いだ。ここは互いに、人間的な部分は忘れて、キツネとタヌキになるしかない。
当たり障りのない儀式だった。実家で家族が鍋をつつき、食事を終えて世間話をするという日常の光景。相手方は、話題を選びながらも時折ぼくに探りを入れるような質問を投げた。あえてぼくは、「昔こんなことがあって」のような話をせず、近況を語るにとどめておいた。
父は終始、にこにこしていた。彼にとっては、物事はすべて丸くおさまった調和の中で進んでいるように見えたことだろう。
だが、ぼくと彼女は違った。話しながらも、ちらりとこちらへ向けていた細い目。ぼくが彼女を観察しているつもりでいるあいだ、彼女もおそらく、こちらを観察していた。
「おい。」
父が別れ際、ぼくに声をかけた。同時に、女の方を向いて何かを促す。
「結婚式、費用が要るだろ。」
下ろしてきたというお金を、渡される。中を見ると、百万あった。贈与税がかからない範囲で、と手渡しされた金。ぼくは、ありがたいと思う反面、ひやりとした。
ぼくに渡す前、父が女からその金を受け取っていたからだ。
つまり、女が銀行へ行って下ろしてきた。彼女はすでに、ある程度父の金を自由にできる立場にある……!
ぼくはリュックの中にその封筒をぎゅっと押し込んで、帰路についた。
外は秋の風が吹き、木の葉が舞っていた。いつもなら心を鎮めるはずの季節の気配が、その日ばかりはどこか落ち着かなかった。
父が、ぼくのために積み立ててくれているというお金の在処も、詳しくは聞かされていない。これからは、父のそばにあの女が常にいることになる。そうすると、相続や遺言について話す機会はかなり制限されるだろう。
自転車を漕ぎながら、背中に百万の重みを感じる。夕闇に溶けていく遠くの山が、景色の向こうに流れて行った。
家に着いて、ぼくは眼鏡を外し、少しラフな格好に戻った。実家までは電車で数駅、駅からは自転車で十数分。距離としては、そこまで遠くはない。窮屈な思いをするとはいえ、もう少し、頻繁に家に戻っておくべきだったかもしれない。
リュックから取り出したお金をテーブルに置く。これからの行く末を、よりじっくりと考える必要があった。
そのとき。
金の入った封筒から、がさりと音が鳴った。同時にふわっと、獣のような匂い。見ると、封筒からは葉っぱがこぼれていた。
「やられた!」
ぼくは叫び、封筒を手に取る。さっき確認した札束は、中身はすべて、葉っぱに変わってしまっていた。
「あの、女狐……!」
ぼくは、太くなったしましまのしっぽを逆立てながら。あの細い目と、浮かべた笑みとを思い出していた。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。