寄贈【せりふ三題噺 / キツネ煮付け歴史】
小学校の理科の授業で、先生が言った。蝶々がさなぎから成虫になる過程を習ったあとのことだったと思う。
「蜘蛛の巣に、蝶々がかかっていたとします。どう思いますか?」
みな口々に「かわいそう」と口にした。それはそうだ。蝶々は自由を奪われ、あとは蜘蛛に食べられるのを待つだけなのだから。
ようやく空を飛ぶことができたというのに。一度そんな罠にかかっただけでおしまいなんて、と当時の僕も思った。
「そうですね。でも、助けたりしてはいけません。」
えーっと声が上がる中で、先生は言った。
「獲物をとって食べないと、蜘蛛だって死んでしまいます。生きるために、必死なんです。」
蜘蛛の巣の、ねばついた糸。それに指が触れて、くっつく感覚を僕は思い浮かべていた。
* * *
その日の放課後、僕は小講堂の裏手からぐるりと回って、下駄箱の方へ向かっていた。クラブの終わりなんかに、たまに使うルートだ。
その通りの廊下には、ガラスケースの中に飾られた、キツネの剥製があった。
先生は言った。
獲物をとって食べないと、死んでしまう。
「お前も、そうだったの?」
僕は、そのキツネに話しかけた。そのキツネは、なんとなく怖かった。黄色い目に、少しだけ開いた口。不自然に立った毛。
生気のない瞳は、僕に答えを返さない。ただ堂々たる姿で、四つ足を地につけていた。
その下にある、寄贈者のプレートに視線を落とす。書かれている苗字は、僕のものと同じだ。最初は、たまたまだと思っていた。近所には多い苗字だったから。
でも、最近になって祖父から聞いた。夕飯どきのことだった。
「あれはわしの親父……つまりお前のひいじいさんが、捕まえて小学校に寄贈したんだよ。」
箸をこちらに向けて、そう言った。祖父の箸の持ち方は相変わらず独特で、右手の中でやけに八の字に開いていた。
僕は、冗談だと思った。よくご飯のとき、じいさんは僕に不味いものを美味いと言って食べさせようとするから、どうせこのときも同じだと。
でも、曽祖父は山の方で農業をやっていたというし、キツネに遭遇してもおかしくはないかもしれない。
うちの家から贈られたものが、小学校にあるなんて。
そう思った。
けれど、僕は友達に話そうとは思わなかった。
捕まえられて、自由と命を奪われて、あまつさえ展示品にされるなんて。本当だったら、そのあとも野山を駆けまわることだってできたのに。
食べ終えた茶碗の上に、自分の箸を並べて置いた。そこに、米がひと粒も残っていないのは、たぶん祖父や曽祖父の影響だ。
生きていれば、あのキツネの話をもう少し聞けたかもしれない。でも、ひいじいさんはとっくの昔にお墓の中だった。
* * *
五年生にあがったころ、キツネの剥製は市の歴史資料館に移ることになった。
ある日、急になくなっていた。僕は驚いて、職員室に駆けこむなり「あの剥製、どこにやったの」と担任の先生に聞いた。
そのときの、マグカップを片手に持ったまま口をぽかんと開ける先生の顔は、今も記憶の引き出しの中にある。でも、どちらかといえば、あまり思い出したくない方の引き出しだ。
よくよく考えてみると、あのキツネは僕の持ち物でもなんでもない。学校の方針で移設されたからといって、文句を言える立場ではないのだ。
移設先の歴史資料館は、自転車で行ける距離にあった。そのあとも、資料館に足を運んで、例のキツネを目にする機会が何度かあったと思う。
そんなとき、小学校で「郷土史」の授業があった。「歴史」というのは僕にとって、教科書の年号でだけ語られるものだった。けれど、郷土史であれば身近に感じられて、興味を持てるかもしれないな、と思った。
曽祖父が農業をしていた山にも歴史がある。同じように、僕らの通う学校にも、そばを流れる用水路にも、一本の桜にだって歴史がある。
なのに、「郷土史」はたったのひとコマの授業で終わった。
教科書は閉じられた。僕の町も、曽祖父の山も、その一時間で終わった。チャイムが鳴ってノートを閉じるとき、教室のざわめきはどこか遠くで聞こえていた。
* * *
それから。
僕とあのキツネは、会っていない。
中学、高校、大学と。特に大きな障壁もなく、ページを読み飛ばして進める小説のように、僕の時間は過ぎていった。
きっかけは、地元へ帰省した夏休みのことだった。
駅前の定食屋で、カレイの煮付け定食を頼んだ。店を切り盛りしているのは、小学校のころの同級生だ。親の代から続く店を継いだと、人づてに聞いていた。
「久しぶり。」
「ああ、帰ってたのか。」
注文を待つ合間に、ぽつりぽつりと近況を話す。
「あ、そういえば。」
同級生が包丁を置き、手を拭きながら言った。
「あの資料館、今度リニューアルするらしいぞ。」
「資料館?」
僕らの共通の思い出にある資料館は、ひとつしかなかった。
「ああ。展示もけっこう変わるってさ。」
煮付けの身を口へ運ぶ手が止まる。小学生時代、母と来たときにも、この店でカレイを食べたことがあった。味は、あの頃と変わらない気がした。
「……そうなんだ。」
僕は、それだけ返した。
でも、その一言で、長いこと思い出しもしなかった一匹のキツネが、頭の中でゆっくりと立ち上がった。
「ごちそうさま。」
「毎度。」
店を出ると、真夏の熱気が身体を包んだ。気づけば、実家とは反対にある、資料館のほうへ歩き出していた。
* * *
館内の人はまばらだった。休みだということを考えると、もう少し人が入っていてもいいのに。
館内に入ると、冷房の空気が身体の火照りを冷ましてくれる。
チケットを買って入口を抜けたあと。僕は音声ガイドも、パンフレットも手に取らず、足早に剥製のキツネを探していた。
しかし、見当たらない。
館内の雰囲気は似ても似つかないのに、小学校のころの景色が思い出された。小講堂の裏手、曲がった先にあるはずのガラスのケース。こちらに目をくれることもなく、前をただ見つめるキツネ。
そんなに広くもない施設。けれどとうとう、出会えないまま出口付近までたどり着いてしまった。汗はすっかりひいて、シャツと背中がぺたりとつく感覚だけが残っていた。
おかしいな。リニューアルを待たずに撤去したか、あるいはまた別の場所へ移動したのか。
思わず、近くの職員に声をかけていた。
「あの、すみません。昔あったキツネの剥製……あれ、どこにやったの?」
先生に、職員室で質問したときの記憶がよみがえる。図らずも、同じ言葉だった。
「ああ、あれですね。」
その職員は、知っていた。
「今、展示から外してます。古くなってしまって……。」
「処分したんですか?」
「いえ、まだ収蔵庫にあるはずですが。」
「それって、ちょっとだけ見ることってできますか?」
無理を承知で、頼む。職員は思いもよらない依頼だったのか、少したじろいだようだった。
「展示予定はないんですよね。」
そうですか、と肩を落とす。どうして、こんなにこだわっているかは、自分でも不思議だった。職員は僕の様子を見て、口元を何度か歪めた。
「あの……何か、ご事情が?」
「いえ。……子どものころに、小学校で見たものなので。」
僕の一言で、少しだけ職員は目の色を変えた。あの剥製が展示される前や、展示されていた時間を知っている人の目だったかもしれない。
「まあ、少し見るだけであれば……。」
それから、ふたり分の足音がずれて響く。案内されるまでの少しの間、経緯を聞くことができた。
もともとこの地域では当時、まだキツネが普通に山にいて、鶏を襲うこともあった。そこで農家が罠にかかったキツネを役場へ持っていき、「珍しいから展示にしよう」と地元の小学校に回された。
そんな話。それが、あのキツネの歴史だった。
声のトーンが、勝手に上がる。
「そんな事情まで、伝わっているものなんですね。」
「ええ、寄贈品は特に、そういう資料も一緒に残っていますね。」
祖父から聞いた話が、遅れて思い返される。そういえば、ひいじいさんは罠にかけて捉えた、と言っていたかもしれない。それを聞いて、かわいそうだと思った記憶がある。
「そういう時代だったんでしょうね。……でも当時は、鶏を守るためだったそうです。」
職員の持つ鍵束が、じゃらりと鳴る。キツネをかけた罠も、こんな音がしたのだろうか。
その音でふと、先生の話が蘇った。
あのとき、かわいそうだったのは蝶々だった。でも、蜘蛛も腹を空かせていた。キツネは、どちらだったのだろう。
はっきりと思い出せないまま、僕は曽祖父のことを考えていた。
* * *
スタッフオンリーと書かれた金属の扉。職員が手をかけるとき、思わず息を飲む。ぐわらら……という、低く重い、地鳴りのような音が震えて聞こえた。
少し進んで、ガラスケースの前に案内される。
「ああ、ここです。」
しかし。
「あれ……おかしいな。」
職員の声は、庫内にやけに響く。
そのケースに、キツネの剥製がない。
台座はあるが、そこについていた四つ足も。遠くを見つめる黄色い目も。毛の一本だって、残されていないようだった。
台座の下部には、寄贈プレートがある。
キツネ
昭和三十二年 本町〇〇地区で捕獲
松嶋氏寄贈
学校で見た、あの日と同じ文字だった。
「資料には移設や廃棄の情報は残っていないので、あるはずなんですがね……。」
職員は慌てた様子で辺りを見回し、こちらを向いて、言った。
「ちょっと確認します。」
「いや。」
自然と、口にしていた。
「もう……大丈夫です。」
僕は感謝を伝え、収蔵庫をあとにした。職員も、それ以上は何も言わなかった。
館を出ると、まだ外は暑かった。蝉が鳴いている。足元に、茶色い抜け殻が転がっていた。僕は踏まないように、そっとよけて歩く。
ふと、野山を駆けまわるキツネの姿を空想する。
キツネは振り返らず、僕が見えなくなるまで、遠くの方へ走っていった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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