黒真珠と月の影【創作】
人魚姫は、泡になって、消えてしまった。
それが、僕の知ってる物語の結末だった。
でも、彼女の場合は違う。
別の結末が、僕たちを待っていた。
* * *
この日は、満月が浮かぶ日の夜だった。
隼人は、器材チェックでひとり船に残っていた。ダイビングスクールの講師をやっている彼は、こうして夜の海で作業をすることがたびたびあった。
しかし、今日の海はいつもと違った。経験豊富であるがゆえの油断。風が強かったため、彼は潮の読みを誤った。急な突風に揺られ、手すりに肩をぶつけて落水してしまう。
夜の海は暗く、流されたライトの光もすぐに消えてしまった。ウェットスーツの浮力だけでは意識をつなぎとめきれず、視界がゆっくりと滲んでいく。
沈みゆく意識のなか、青白い光だけが近づいてくる。
珊瑚礁を抜け、小魚と群れ泳ぐ姿。それは空を駆ける光のようにも見えていた。
その中心にいたのは、胸元で黒真珠を淡く輝かせた「人魚」だった。海中で月のように光るその珠と同じくらい、彼女の両腕は温かかった。
「……人、なのか……?」
隼人のかすかな声に、彼女は答えないまま腕を掴み、浜へと引き上げた。
* * *
浜に彼を置き、そっと海に戻ろうと背を向ける。もとよりこの鱗だらけの下半身では、浜で長居することもできない。
しかし、帰ろう、という一歩がどうしても踏み出せない。
地上を見上げる。
星。月。波打ち際の、音の心地よさ。幼い頃からの憧れが、胸に戻る。
「こんな夜に……少しくらい、見ていてもいいよね……。」
人魚の名前は、アンといった。
かつて暮らした里とはまた違う、雄大に広がった景色。けれど、アンの視る世界は狭く閉じられたまま、薄い空気の中にいるような息苦しさがあった。
彼女が地上に思いを馳せているうちに──。砂の上で隼人が咳き込み、意識を取り戻した。
目を開けた彼と、座り込むアンの視線が重なる。隼人は混乱しながらも、彼女の胸の黒真珠を見てふと笑う。
「……きれいだな。」
目の前には、おとぎ話でしか聞いたことのない人魚の姿。けれど、驚きよりも先に言葉として出てきたのは、その一言だった。
アンの顔がひきつる。自身の姿を人に見られたことよりも、彼のその言葉が、身体をこわばらせた。
黒真珠は人魚界では「忌み嫌われるもの」。褒められたことなどない。表情は曇り、目をそらした。
「どうかした?」
「黒真珠は……喜ぶようなものじゃないの。」
言葉が通じることを悟らせないよう、今までは黙っていた。しかし感情が先に立ち、ふと強く抑えていたはずの言葉がこぼれていた。
「この黒真珠は、不幸を呼ぶ。少なくとも私の里では、そう言い伝えられているわ……。」
アンは胸元に視線を落としながら、ぽつりぽつりと口にしはじめた。
黒真珠は人魚の里では「災いの証」とされている。身体にこれを持って生まれた瞬間から母親は泣き、アンは仲間の人魚たちから避けられた。
過去の黒真珠の人魚たちはみな、里を追われ、海の果てで悲惨な最期を迎えたという。だから彼女も、いずれそうなると信じていた。
隼人は、その独白を黙って聞いていた。黒真珠を褒められても喜べない理由が理解できた。
他の黒真珠の人魚たちは、ただひとり……大きな海洋生物に襲われたり、人間の漁師に見つかったりするリスクの中、生きていかなければならないのだろう。過酷な身の上は、容易に想像できる。
「だから、これ以上は私とかかわってはいけない……。」
隼人は少し体を起こし、顔の砂を払いつつ尋ねる。
「でも……どうして君は、僕を助けてくれたの?」
アンは顔をそらし、その言葉には答えなかった。
「あなたの命は助かったのだから、それで十分でしょう。もう会わない方がいいわ。」
海へ戻ろうとする、黒真珠の人魚。けれど、その後に続く彼女の言葉で、周りの潮の音が少し小さくなった。
「……あなたの世界は、きれいね。私のいた里とは、少し違う。……いつか、行ってみたいと思ってた。」
その背中には、未練が滲む。砂を引きずる尾が、重く寂しい音をたてていた。それを見て、隼人はなぜか彼女に声をかけなければならないと感じた。
「だったら。……君でも行ける場所を知ってる。ここからはたぶん、少し泳ぐけど。」
隼人はゆっくり立ち上がり、海の向こうを指差す。
「……少しまだ、力が戻らない。僕の手を引いて、そこまで連れて行ってくれないか。」
真剣な眼差しだった。けれど、アンにはそう簡単には信じられなかった。過去に信じて、傷ついた記憶が、胸の奥をざわつかせる。
それでも、差し出された彼の手は、温かかった。
* * *
「海でも陸でもない場所だ。他に人が来ることもない。」
先の、彼の言葉を頭の中で反芻する。
そんな嘘みたいな場所が、本当にあるのだろうか。手を引く後ろの男の様子をうかがいながら、アンは海中をひたすら泳ぐ。隼人は、こちらに顔を向け、強くアンの手を握っていた。
──まさか。
アンは、はっとする。ここから先は、私が少し前に通ってきた海路。断崖絶壁の下は、少々危険な岩場になっている。
この人間の男は……自分の命を奪おうと、嘘を言っているのではないか。
いや──現世ではない所へ連れて行こうというのなら。「海でも陸でもない場所」というのは、あながち偽りとも言い切れない。
彼がそういうつもりでいるのなら。
私自身が彼を信じ切ることができないのなら。
この手を、離してしまえばすむことだ。
そうすれば、男は海をさまよい、そのまま沈んでいくしかなくなる。
きゅっと隼人の手を握る彼女の手に、力が入る。呼応するように、握り返してくる彼の少し大きな手。
この手を、離してしまえば──。
* * *
結局、アンには手を離すことができなかった。
ぽたぽたと髪から彼女の顔に雫が落ちる。彼女はうつむき、手を見つめながら彼の話をじっと聞いていた。
隼人がアンを案内したのは、潮間帯だった。
満潮のときは海水が高く押し寄せて、そこにある窪地や岩場はすっぽり水に沈み、洞窟のような水中空間になる。けれど潮が引けば水は退き、同じ場所が海と陸のあいだにぽっかり現れる、隠れた岩棚に姿を変える。
ダイビングを始めた頃、すでに引退した先輩に教えてもらった秘密の場所。魚影は薄く、マクロ生物もいないから地元のダイバーもほとんど来ない。
潮の読みができない者は近づけないし、普通の遊泳客もいない区域。人が近づくことはそうそうない──。
隼人はダイビングスクールの講師らしい口調で、淡々とこの場所の説明をした。
「つまり、決まったタイミングでしか通れないんだ。ある程度、潮の読み方が分かる僕や、君みたいな人魚なら、たどり着ける。
海でも陸でもない『境界』の場所。水の中で眠り、岩棚で星を見て過ごす。──自分がもし人魚だったら、ここで過ごしたいって前から思ってた。」
隼人は自分でも不思議だった。助けられたからでも、珍しい存在だからでもない。ただ、この人魚の沈黙が、夜の海でひとり作業をしていた自分と、どこか似ている気がしたのだ。
月影の入り江。その光の下、アンはそっと隼人の横顔を見つめる。
里で想いを寄せていたあの人に、やはり似ている──。そう思った瞬間、胸の奥がほどけたようだった。
「命を助けてくれた、お礼だよ。君のことはもちろん、誰にも言わない。」
笑顔をこちらに向ける隼人。
……もう一度。この眼差しを、信じてみてよかった。
気づかないうちに、アンの頬もゆるんでいた。彼女の黒真珠は、希望を取り戻したかのように。静かに月の光を反射していた。
* * *
あれから、幾ばくかの月日が流れた。
私の黒真珠はきっと、今までの里の黒真珠とは違う。
たくさんの人魚がこれまでに生まれてきたんだもの。幸せを呼ぶ黒い真珠があったって、おかしくはない。
今夜は月齢14、満月の大潮。約束の日。
潮の流れにそって、彼の気配が近づいてくる。
「……お待たせ。」
水しぶきのあがる音とともに、彼の声があたりに響く。私は愛おしい胸に飛び込み、彼の背中に両手を回した。
月影の岩場に、穏やかな風が吹き込んでいる。
たったひとつの宝石は、私の胸の中で、今日も大きく輝いていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。