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封書は親展で【創作】

ここはS県某所、社員百人ほどの設備会社。
事務所の壁に貼られた「禁煙」の張り紙が、白く新しい。

窓の外では、トラックの列が朝の光を反射している。くたびれた、灰色の街の中でも、そこだけはきらりと光って見えていた。

村上由紀子は、設備第二課の事務員だった。
現場の勤怠や資材発注を担当し、必要に応じて経理に書類を回す。
仕事は正確で、感情を交えない。ひたすら合理的、俯瞰的にものごとを進めるところから、冷たい人と囁かれることもあった。

この会社では、給料日に住所や署名欄が一名ごとに綴じられた冊子が各課に回される。給与明細の受け取り署名をうながすものだが、由紀子はそれを経理から預かり、課員へ配布する役目を任されていた。

社員たちの字癖や書き方からはそれぞれの性格がにじんでいる。冊子に目をやりながら、彼女は考える。

──それにしても、この冊子。めくって覗けば、他者の個人情報を容易に盗み見ることができてしまう。

この仕組みも、時代にそぐわないものだ。しかし、事務所の禁煙も複数の人間が幾度となく声を上げてようやくかたちになったばかり。仕組みが変わるまでには、まだ少々時間を要するだろう。

このころは、上役が、社員向けに企業理念を言語化した文書を作成したり、全社員が集う総会を企画したり。変わりつつある時代の中で、この会社なりに足掻いていたのかもしれない。

* * *

「資材台帳と在庫が合わない?」

設備第二課長であり由紀子の恋人・辻野涼から、穏やかではない話を聞かされたのは、月初の火曜日のことだった。

「ああ、確実なところが分かるまではあまり大きな声で言うべきではないが──事務のきみには話してもいいだろうと思って。」

最近、涼が遅くまで残業しているのは、在庫の調査を台帳と照らし合わせてチェックしていたためだという。

「それって、設備第二課の誰かが...…ってこと? 何か、できることはある?」

頻繁に物品が出入りする現場の在庫管理室。その部屋のチェックが長期間行われていないことについては、由紀子も気になっていたところだった。彼女の背中から、課内への猜疑の念が湧いて出る。

「一応、これまで取りまとめた内容は部長には報告済みだ。ようやく、目星がつけられた。」

涼の座るスチール椅子がきしむ。

小声で話してくれたところによると、どうやら資材が入荷した直後、かつ特定の社員がひとりで残業していた際に数値がずれるという。

由紀子は、彼の言葉の続きを待った。

* * *

壁掛け時計が八時を差し、朝礼が始まる。

遅れて来た誰かのせわしない足音と、「おはようございます」の声。
窓からは埃を照らすような斜光があり、壁際にはヘルメットや工具ベルトが並んでいた。

朝礼では、日報の報告のあと、課内持ち回りで一人が前に立ち、ちょっとした一言を求められる。今日の担当は、寺岡啓吾だ。

寺岡は、こつこつまじめにやるタイプではないが、周囲とのコミュニケーションは良好で、調子のいいことを言い同僚を笑わせていることも多い。

朝礼のときには、仕事の考え方や姿勢についての話を説くなど、どうやらビジネス書の類も読んでいるらしい。

今日の一言では、受験を控えている現在の娘の成長に感動し、父として涙をこぼしたという、みなが感銘を受けるような、そんな「いい話」をしていた。

──あの寺岡が、資材の盗みを?

周りに話しても信じられないだろう。
由紀子さえ、涼の話を聞いていなければ信じられなかったかもしれない。

しかし、今にして思えば、一種のうさん臭さはあった。
通りすがりの挨拶の声。社員間で談笑している際の表情。そんな中、笑うときに目だけが笑っていないように感じたことがある。

彼の、笑顔が貼りついた裏にひそむ悪意を、無意識に感じ取っていたのかもしれない。

「じゃあ今日も安全第一で、よろしくお願いします。」
「はいっ!」

はっとして、由紀子は空想の世界から舞い戻るのだった。

* * *

それから、数週間の月日が流れた。
寺岡の末路は、拍子抜けするほどあっけなかった。

発注資材が納品された日に部長と涼ではりこみをかけ、寺岡がカバンに銅線とブレーカーを詰めて持ち出したところをネズミ捕りにかける。

持ち出し禁止の規則を破っている時点で、言い逃れの余地はなかった。
寺岡は抵抗することもなく、二人が姿を現した時点で観念したらしい。

禁煙となった事務所で後日、これまでの盗みについて、部長と涼、寺岡で話し合いという名の取り調べが行われた。

それも、由紀子は後から涼に聞いて知った。端からみれば、部長が来て現場の連中と打ち合わせをしている程度にしかうつっていなかったはずだ。

会社は寺岡に対して、「懲戒解雇」ではなく「自主退職」というかたちで処理したという。「これ以上揉めると面倒だ」と上層が判断したのだ。

いつの間にか社員がひとりいなくなる、というだけ。
何かあったのか噂は出ても、そんなものはすぐに忘れられる。

寺岡は最後の日、背中を小さくして現場を後にした。

* * *

「あなた、異動になるの?」

由紀子はすっとんきょうな声をあげる。声の大きさに自分でも驚いた。

「ああ。多少暇な部署への異動だから残業が減らせるし、今と違う種類の業務だから楽しそうだが。」

涼はあっけらかんと言うが、暇な部署ということは、期待されていないということだ。由紀子には、彼の異動は課内での窃盗について責任をとらされたようにしか見えなかった。

あれだけ残業をして、努力もして、犯人まで突き止めた彼が、どうして。

反対に、元凶の寺岡はというと、警察のお世話にもならず、ただ「いなくなった」だけ。犯罪を犯した大人が誰からも裁かれない。こんなことがあっていいのか。

普段感情を表に出さない由紀子だったが、このときばかりは不服を述べた。

「そんなの...…納得いかないわよ。」

「とにかく、在庫管理室は常時施錠。かつ入室者が特定できるように生体認証機器の設置が今後進められるらしいから。もう盗みはないだろう。」

食い下がる由紀子を、なだめるように涼は言う。

「──仕組みが変われば人も変わる。これまでの仕組みが、時代に合っていなかったんだ。」

由紀子はここではっとして、答えた。

「……わかったわよ。」

──今までの「仕組み」が味方して、寺岡の盗みを手助けしたというのなら。これから私がやろうとしていることだって、きっと許されるはずだ。

* * *

由紀子は、給与明細の署名の冊子を思い出していた。

──寺岡啓吾の欄。
「同居:ひとみ(娘)」と、小さく印字されていた。

寺岡の署名は、綺麗な字だったので由紀子の印象に強く残っていた。記載された、彼の住所も……同様に、頭の片隅に居座っている。

白い便箋を封筒に入れる。


寺岡 ひとみ様
──あなたの父親は職場で盗みを働き、退職しました。


少し考え、封筒に「親展」の言葉を添えた。

署名もなければ、余計な文言も加えない。
切手を貼り、出勤途中のポストへ。

その日の風は冷たく、彼女の指先が少し震えた。
寒さのせいか、それとも別の理由か、自分でもわからない。

封書が投函口に吸い込まれていくのを見送りながら、由紀子は小さくため息をついた。

またここから、いつもの一日が始まるだろう。

証拠写真もない。信用されないかもしれない。
親展と書いたからと言って、娘本人が開けるかどうかもわからない。

でも、それでいい。開封されれば、疑惑の種は勝手に育つ。

彼女の胸には、奇妙な安堵。──そして、形容しがたい後味だけが残されていた。

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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。