先生と呼ばれた男【創作】
駅構内のベンチで、男は時刻表を眺めていた。次の電車まで、まだ七分ある。急ぐ理由はなかったし、かといって、急がない理由も特にはなかった。
バッグの中の小説を取り出すが、思うように進まない。ページを繰っては、また戻る。
数駅先の大きな駅。その近くの店を、元教え子が幹事となり予約している。高校の同窓会だ。参加か不参加か、はっきりした返事をしないまま、結局ここまで来てしまった。
* * *
──ご都合がつくようなら是非。当日でも人数は調整できます。
そう書かれた幹事からの返信は、親切であるようにも、無責任であるようにも見えた。店の名前も時間も覚えている。ただ、男が返信した中にあった「その日の予定がわからない」という言葉だけが、宙に浮いていた。
男の職業は、教師だ。
ただし、そう名乗ることはいまや許されてはいない。他校で、客員講師として教職の場に身分を残す選択肢もあった。しかし、選ばなかったのだ。
教壇を降りるに至った理由は、要点を絞って説明するには、やや複雑だった。
「私は、もう教員ではありませんので」。
招待を断るために送った文面は、丁寧で、間違いのない文章だ。誰も傷つけず、誰からも責められない。そういう文章。
だが、それで決めきれたわけではなかった。
幹事は成瀬と聞いた。
──となると、山根や、稲田らがいた年の担任か。思えばあの学年には、問題を起こす生徒が多かった。
授業中に隠れてゲームをしたり、さぼってトイレでたばこをふかしたり。校内放送で名前を呼び、職員室に来させたことも一度や二度ではない。放送室のマイクに向かって話しながら、冷静さを装ったあの感情が思い出される。
教師が、生徒の名前を呼ぶという行為。これは常に、一方通行だった。数学の女性教師の──なんとか先生を泣かせたのも、彼らじゃなかったか。廊下に立たせ、目を合わせて、静かに注意したこともある。
別に、彼らが特別可愛かったからではない。仕事だったし、風紀が乱れているのが居心地悪かったというだけだ。ただし、呼び出す側としては、その役割を果たしてきたという自負はあった。
それが正しかったのか。その答え合わせは、ない。
部活の顧問をやっているからといって。生徒に対して時間を割いているからといって。そして、担当科目を好きで熱心に教えるからといって。それらが理由で、教師が評価されるわけではないからだ。
* * *
携帯電話が震えた。幹事からだった。男は一度画面を見たが、通話をつなぐことはしなかった。
──悪いが、やっぱり今回は参加しないことにしよう。
真面目に聞いてくれた生徒もたくさんいた。授業資料になると思い、海外旅行時に撮ってきた写真をスライドで見せてやると、みな目を輝かせて聞いてくれていたっけな。……そんな風景を回想すると、少し胸も痛むが。
しかし、男は決めた。というより、決めたことにした……というのが近かったかもしれない。
小説をしまい、スマホもしまった。これで逆方向の電車に乗れば、通知が来ても、見なくてすむ。同窓会は、あくまで生徒たちが主役だ。
男は立ち上がった。中央口の改札は、目の前だった。
そのとき、駅の構内放送が流れた。
『大川高校からお越しの、佐藤先生。お連れさまが、連絡橋口の改札でお待ちです。』
一瞬、自分の名前だと理解するまでに時間がかかった。「先生」という呼び名に、足が止まる。アナウンスは、同じ言葉を繰り返していた。
次の瞬間、身体が動いた。
* * *
それは、同じ駅で。数分前のことだった。
「佐藤先生、来れないの?」
ひとりが言った。周りには、幹事の成瀬を含め複数の若者がいる。
「私、先生さっき見たよ。ベンチに座ってた。次の電車に乗るんだと思ってたけど。」
「俺、さっき電話したけどつながらなかったんだよ。もしかして、スマホの充電が切れてるのかもな。」
「ありえる。あの先生、昔から、ちょっと抜けてるとこあったし。」
「そうだ。駅員さんに、呼び出してもらおうか。」
それは、彼らが深く考えた末の判断ではなかった。ただ、そういう手段を、知っていたというだけのこと。
駅員が、確認のために尋ねる。
「呼び出したい方のお名前と、その方がどこから来られたかを教えてください。」
* * *
男は通路を歩いていた。このとき、放送はすでに終わっていた。人の流れに逆らうことも、従うこともなく。ただ、足を運んだ。
男が呼ばれた名に応じて、歩き出したその先はどこだったのだろう。
そこは、彼がかつて立っていた場所の延長だっただろうか。それとも、まったく新しい名前の場所だっただろうか。
いまは誰にも、わからなかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。