薫る風の妖精【シロクマ文芸部】
コーヒーにこだわりは一切なかった。
僕にとっては、眠気を払える苦い飲み物だ。
ただ、そのお店のレトロな雰囲気が気に入って、足を運んでいた。
レンガに囲まれた、古い洋館のような店内。
明るすぎない照明の中、コーヒーのよい香りが漂っていた。
価格も高すぎず、そこまで混むこともない。大きな応接室に招かれているかのようで、リラックスできる空間だった。
「喫茶 薫る風」は、大学から少し離れた町はずれにあった。
足の悪いおじいさんが、店主としてきりもりする喫茶店だ。
履修科目の講義と講義の間に空き時間が挟まるときは、しょっちゅうその店に通っていた。足掛け四年、僕は古参の常連と言って差し支えないだろう。
* * *
今日も僕は、いつものようにドアベルを控えめに響かせて入店した。
近くの古書店で購入したミステリ小説を広げ、ホットケーキとコーヒーを注文する。
ふわりと、見えない風が背中を撫でる。
──まただ。奇妙な感覚。
通い始めてからたまに、ふと感じることがある。
この店には、実は「妖精さん」がいるんじゃないかと。
幽霊なのか、幻なのか。正体は分からないが、わざわざ怖く考える必要もないので、僕はただ「妖精さん」と、呼んでいた。
気配を感じることがあるのだ。
本を閉じ、あたりを見回す。
いつの間にか、傘が片づけられていたりとか、置物に薄く積もったほこりが綺麗になっていたりとか。ほんの小さな「違い」にはっとすることもある。
店員は、店主の老人と……その孫だろうか、若い女性だけ。
客側は、今日は僕と──あちらも常連の──中年のおじさんひとりだけだ。
まあ、おおかた若い女性の方の店員が、そういった細かい雑務を処理してくれているのだろう。このレトロな雰囲気が、少し現実から遠ざけるような妄想を僕にさせている。ただそれだけのことかもしれない。
老人は、今日もてきぱきと動いている。
しかし、その足は前よりも引きずっているように見えた。
ふいに、本に影が落ちる。
目の前に、若い女性がコーヒーとホットケーキを持って立っていた。
彼女は黙って僕が注文したものを机に置く。
置くときにカップとソーサーが触れ、ちん、と小さい音を立てた。
笑えば美人そうだが、彼女は不愛想でほとんどしゃべらない。
制服なのか、いつも同じ服とエプロンを身につけていた。
うーん。あの子だけは、少しこの店のマイナスポイントかもしれないな。
僕はコーヒーをひとくちすすり、そんなことを考えていた。
* * *
この店で特に印象的だった思い出といえば。
あれは確か、とある夏の日のこと。
冷房はしっかり効いていたが、店内でもなかなか汗は引いてくれない。
アイスコーヒーがメニューにないこの店で、僕は仕方なくホットをすすっていた、そのとき。
うっかり汗で手をすべらせ、カップを倒してしまった。
少し残ったコーヒーが、テーブルを濡らす。
ペーパーを取りに席を立とうとすると、ひゅっと空気の流れる気配。次の瞬間には、濡れた部分は跡形もなく消えていた。
一応老人には謝ったが、「お客さんの席に、拭いた跡はないですよ」と笑って返された。
夢でも見ていたのか。あるいは、夏の幻影か。
文才があれば、ひとつ詩でも書けそうなものだが……。
それっきり。ただ、それだけの出来事。
珍しいこともあるものだと、すぐに忘れてしまった。
この日は、女性の店員さんは見当たらなかった。
* * *
季節としては、間もなく春になろうかという頃。
少し風が吹けば震えるような日が、今なお続いていた。
店は、とうとう閉まることになった。
手書きのチラシにより、店先で申し訳程度に告知されている。
──残念だが、仕方がない。
どのみち、大学も卒業が決まっていた。
僕ももう、このあたりに来ることはきっとなくなる。
最後の日は、珍しく、同じゼミの友人とふたりで来ていた。
数日前と比べ、この日は少しあたたかく感じられた。
「こんないい店を、閉店が決まってから教えるな」と友人から苦言を呈される。
老人とは普段、滅多に話すことはなかったが、最後に他愛もない会話をした。
この店は、道楽でやっていたようなもので、経営面は問題ではなく、閉店はやはりおじいさんの足が原因……とのことだった。
ここで、ふわりと風の通るような感覚。
どうやら例の女性店員が、いつも通りカップを席に置いてくれたようだった。
ちらと横目で見ると、彼女はほんの少しだけ微笑んで「ありがとう」と言った。今日が、最後の日だからだろうか。
その悲しげな表情に一瞬、僕の中の時間が止まった。
少し間を置いて、カップを手に取る。
コーヒーの苦みが、やけに身体に沁みるようだった。
僕は友人にぼそっとつぶやく。
「あの店員さんだけでは、お店は続けられないのかな。」
友人は、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「店員さんって?」
「何言ってんだ。さっきカップを持ってきてくれた、女性の──」
少しいらついて、声が大きくなってしまった。
「あの。」
店主の老人が、やや怪訝そうな顔で口をはさむ。
「うちはずっと、私ひとりでやってますよ。」
それを聞くと、僕は何も言えなかった。
テーブルの上のカップからは、あたたかい湯気が立ちのぼっている。
ふと、ドアベルが、からんからんと耳障りの良い音を立てる。
今度は、先ほどの女性の声で「さよなら」と聞こえた気がした。
春の風が、カーテンをやさしく揺らす。
それは店内のコーヒーとミルクの香りを混ぜるように、やわらかく流れていった。
※以下「シロクマ文芸部」さまの企画に参加させていただきました。
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