十七人の集合写真【第四話 合流】
第四話 合流
「十月からの学生さんは、どちらから来られるんですか。」
共同研究員の先生のひとり、直江先生に尋ねられる。彼は他機関との兼務で大学に来ており、臨床に携わる年配の先生だ。
白髪混じりで、おっとりした雰囲気のお医者さん。逢坂にとって直江先生は、初対面のときからずっとそんな印象だった。
「えっと、新しい方はレルメドールから来られるそうです。中東の方で。恥ずかしながら、私は知らない国だったんですけど。」
逢坂が答えると、直江はふうと隣の席に腰かける。そこは松本の席だったが、彼女は今日は午前休をとっていた。自然と、雑談が始まる。
「そうですか。ここには日本の学生さんは、なかなか入られませんね。」
そう。
逢坂は無意識に、手元のマウスの方に目を伏せる。
昨年度から、この研究室でも学生の受け入れが本格的にはじまった。しかし、出願の手続きを申し込んでくるのは海外の留学生ばかりだった。
今いるのは、ドイツ、アメリカ、カメルーンからの留学生。職場から日本語が減って、知らない言語が増えることに、逢坂はまだ慣れなかった。ただ、おかげで受け入れ手続きはスムーズに対応できるようになってきた。人が増えるたび、対応の仕方も増えていく。ビザの確認。寮が埋まっていたときの代替案。宗教で食べられないもの。
「また、時間が合えば僕が迎えに行ってあげましょうかね。」
「本当ですか。とても助かります。」
直江先生は、件のカメルーン人を空港から車で送ってくれた実績があった。彼が誰とでも馴染めるのは、日々多数の患者さんの話を聞いているからだろうか。ごつごつと節くれだった、今なお力強い彼の指を見つめながら、逢坂はそんなことを考えていた。
よいしょ、と席を立ち、直江先生は笑顔で言う。
「それで……申し訳ないですが、入構許可証の更新をまた手伝っていただけますか。小さい文字を読むのが大変で。」
「ふふ。はいはい。任せておいてください。」
逢坂は微笑んで言った。彼は車通勤で、構内の駐車場を利用している。この手続きは、すでに昨年体験済みだ。自作のシートを選択し、画面に表示させる。手続きごとに、必要な様式のリンクをまとめたもの。
大学事務は、担当者連絡先や事務書類様式の場所がわからない新規の手続きの場合、調べるのに時間を要する。特に複数部署が絡む分野の作業では、メールや電話でたらい回しにされることも少なくない。
工事の伝票は部局の事務には回さないとか。このIDカードの申請は総務じゃなくて情報整備課に提出するとか。
けれど、一度そうやって経験を積めば、昨年の様式から期間を書き換えて提出するだけで済むことも多い。入構許可の更新は、どちらかといえばこのタイプの業務だった。
逢坂は、昨年の作業履歴をメールで見返して、考えた。
これなら、午後から来る松本さんに任せてみてもいいかもな。
「あ、そうだ。」
直江先生が振り返って、尋ねた。
「その学生さんの、お名前はなんといいますか。」
「ああ、アルシェド・ラミザフさんっていうそうです。」
逢坂は答えた。
またひとり、異国の声が増える。それは逢坂にとって嬉しくもあり、どこか寂しいことでもあった。
初期メンバーである自分と一緒に、少しずつ大きくなってきた研究室。成長を感じられるのは、喜ばしいことのはずだ。
けれど、自分の机の引き出しに新しい名札や書類が増えるたび、少しずつ自分が机の奥へ押しやられていくような気がした。
* * *
とうとう、この日がやってきた。
アルシェド・ラミザフ氏から、「想定通りの日時の航空機に乗れそうだ」というメッセージを受け取っていたのが一か月ほど前。送られたフライトスケジュールによると、今日が日本の空港に到着する日だった。
結局、アルシェドを空港に迎えに行くのは、逢坂の役目になった。直江先生は主所属の機関での用務が長引き、都合がつかなくなったのだ。
過去に来たアメリカとドイツの留学生は、迎えを手配しなくても自力で研究室までやってきた。ふたりとも日本旅行の経験があり、平仮名くらいなら読めるようなタイプだった。
だが今回のレルメドールの彼は、初来日だと聞いている。教授に「じゃあ私が行きましょうか」と言うと、往復の交通費をポケットマネーで渡された。差し出された金額がぴったりすぎて、最初から自分が行くことを見越していたのかと逢坂は邪推した。
「翻訳機、持ちました?」
出発前、松本に声をかけられる。
「持ちました。発注した備品、届いたら受け取りお願いします。」
「了解です。」
九月末だった。身体に浴びる風が、少しだけ軽くなっている。
地下鉄に揺られながら、逢坂は今後の手続きのことを考えていた。
住民登録に保険。学生証の受け取りと大学IDの有効化……。この辺は、すでに来ている留学生に手伝わせよう。銀行口座は、さすがに事務方の補助が必要かもしれない。
それと、次からは平日着の便をお願いしよう、とも思った。もし土日着なら勤務外で対応が難しい。マニュアルを更新しておかないと。
空港に着いて、到着案内板を見る。
そこで、逢坂は一度立ち止まった。
──国内線。
「あ。」
急いでスマホを見返す。便名の頭に、ちゃんと国際線コードがついていた。
やばい。
時計を見ると、アルシェドの乗った飛行機は定刻通りならもうじき着く。
慌ててシャトルバスに飛び乗った。車窓の向こうで、滑走路の端が流れていくよりも、気持ちの方がはやる。
間に合わなかったらどうしよう。初来日で、誰も迎えがいなかったら……。
胸の奥がざわつく。どきどきと鳴る心臓の音が邪魔で、バスが止まるまで、うまく思考が回らなかった。
だが国際線ロビーに着くと、到着便は遅延表示だった。少しだけ安堵する。しかし、着陸後もなかなか出てこない。
入管で止まっているのかもしれない。荷物を待っているのかもしれない。翻訳機を握ったまま、逢坂は二時間近く待った。
周りで、迎えに来た者と迎えられる者の合流のシーンを何度も見て、不安になる。プラカードみたいなものも持ってこなかった。こちらは履歴書に載った写真を何度も見ていたけれど、相手はオンライン面談で一度顔を合わせただけだ。こちらから、見つけてあげる必要がある。
逢坂は、時計の時刻を何度も見返していた。はっと思い立ち、国際線ターミナルの大きな看板の写真をスマホで撮影した。
* * *
ようやく現れたレルメドールの男は、写真で見たより少し痩せて見えた。やはり、入管でだいぶ待たされたということらしい。
メッセージでやり取りする手段を来日前に提案していてよかった。目立つ場所の写真をこちらから送付し、「ここで待っている」とついさっき連絡を入れたのを、見てくれたらしい。とはいえ相手のデバイスがネットワーク接続できていないと詰みとなる、いわば賭けだったが。
彼はスーツケースの他に黒いバックパックを背負い、手にはくたびれた書類ケースを抱えている。身体つきはたくましく、年代物のスーツに反して、髪と髭は丁寧に整えられていた。
逢坂は手を振って、声をかけた。アルシェドはそれを見て、一瞬だけ止まり、それから小さく笑った。
「アルシェド・ラミザフさんですか?」
逢坂の質問に、彼は頷く。
「アルでいいです。」
その声を聞いて、逢坂はようやく肩の力を抜いた。会えないことへの懸念はもちろんあった。けれど、直接対面したことがなく、人間性が読めなかったのも不安材料だった。申請書や履歴書に貼られた彼の顔写真は、正直しかめっつらで、友好的には見えなかったのだ。
実際会ってしまえば、そんな心配は杞憂だった。彼は予想よりも親しみやすく、よく喋り、よく笑う人物らしかった。
逢坂はまず、すぐそばの両替所へ連れて行き、翻訳機を通して「日本円を持っておいた方がいい」ことを説明した。
アルはガラス越しに並ぶ紙幣を見つめていた。両替時、受付のお姉さんからどこの国からかを尋ねられ、アルは丁寧に自国の名を答えていた。
そのとき逢坂は、彼の側頭部に、髪に隠れていた傷らしきものを見た。それは妙に生々しく、何があったかを聞くことはためらわれた。過去に殴られるなどの暴行を受けた経験がある、ということかもしれない。詰まるような想いが、逢坂の胸を襲った。
それから空港を出た地下鉄の駅で、交通系ICカードを作らせた。名前の登録方法を教え、チャージの仕方を見せる。
アルは何度も礼を言った。改札を通るとき、カードをかざすだけで扉が開くのを見て、少し目を丸くしていた。
「本当に、止まらないんですね。」
翻訳機が訳した表示を、逢坂は意味がわからず聞き返した。
アルは言った。
「祖父が、日本の電車は時間どおりに来るって。」
逢坂は笑った。
「まあ、たまには遅れます。」
それでも、目的の電車は予定通りにホームへ滑り込んできた。
* * *
空港から大学へ向かう道すがら、アルは何度も窓の外を見ていた。
「ここには砂埃がない。」
それが、電車を降りて最初に言った言葉だった。風がやわらかい。靴の裏に泥がつかない。道の端まできれいに舗装されていて、水たまりが濁っていない。そんな当たり前のことに、いちいち驚いていた。
最寄り駅で降りたときには、彼は「海は近いのか」と尋ねた。
「遠くはないですよ。」
逢坂がそう答えると、アルはその場で深呼吸して、潮の匂いを探していた。その様子が妙に幼く見えて、思わず笑った。もちろん、そこまで海の匂いは届いていなかった。
建物の中に入ると、冷房の乾いた音が響いていた。廊下の照明は昼でも白く灯り、蛇口をひねれば水が途切れずに流れる。
アルは、そういう止まらないものを確かめるみたいに、ひとつひとつを目で追っていた。祖父から聞いていた話は、大げさではなかったのだと思った。
逢坂に案内され、研究室の入口まで来たところで、アルはふと立ち止まった。扉の向こうから、低く絶え間ない機械音が聞こえる。
水の循環する音だった。
研究で使われるモデル生物が、その中を群れで泳いでいた。
揺れる水草。絶えず鳴り続けるポンプ音。透明な水の中で、魚影がいくつも重なって動いている。
「まずはみんなに紹介しますね。あなたの席はこっちで……。」
アルに声をかけた逢坂が、はっと口をつぐむ。魚に見入る彼の表情は、真剣という言葉だけでは足りない。茶の色をした双眸が、せわしなく左右に振れる。そこに、彼のそれまでと、これからの人生が宿っているかのようだった。
アルは、レルメドールの研究室の水槽を思い返していた。いつもそこに、魚の影はひとつしかなかった。予算も水も、設備も足りなかったからだ。群れで泳ぐ魚を見るのは、これが初めてだった。
ただ、それだけのことなのに。なぜか、胸が熱くなるのを感じた。
ここなら、できるかもしれない。研究も、その先の未来も。
そう思った。
水槽のそばのロッカーには、去年のものであろう、桜の前で撮った集合写真が貼られていた。アルはそこで、はっとして逢坂の方を見た。
「すみません。見入ってしまって。」
「え、いえいえ! 大丈夫です。」
声を掛けられ、逢坂の意識も、アルの横顔から研究室の空気へと戻った。逢坂にとってはただの水槽でも、きっと彼にとっては違うということなのだろう。
研究室の人々は、そんな彼のことを温かく迎えた。
教授、職員、学生たち。アルは持ってきた土産を数名に手渡したあと、思ったよりずっと早く、その輪の中に溶け込んでいた。率先して話しかけ、質問し、飛び込んでいく度胸。逢坂はそんなアルの姿に、自分にはないものを見ていた。
* * *
暑さが完全には消えないのに、このころは夕方だけ急に秋になった。帰り道では、金色っぽい西日が、低い位置から逢坂の横顔を照らしている。
大学は、在来線でも地下鉄でもアクセスしやすい場所に位置していた。逢坂の家は、電車でほんの数駅のところにあり、どちらでも通える。
駅前のお店に寄り道をしたいときは在来線。まっすぐ帰るときは地下鉄。そのような使い分けだった。通勤手当は最短距離での支給のため、在来線の使用はちょっぴり損だが、誤差だった。
身軽なひとり暮らしなので、大学の近くに引っ越そうと思えばできた。徒歩で通えば、通勤手当が浮く分、執行可能な研究費が少し増えるだろう。そうすれば、五十嵐先生に相談して、予備のディスプレイアダプターも買えたりして。
ふと、駅前の書店の前で、足を止める。来月で閉店する旨の貼り紙を出していたのだ。
逢坂はなんとなく、立ち寄った。なくなるとなると、途端に名残惜しくなる性分だった。寂しく思うなら、こんなときだけでなく普段からお金を落とすべきなのに。
最近、本なんてほとんど読んでいない。
それはきっと、職場で活字に囲まれている反動だろう。一日に数十件のメール。教授や助教の研究計画書の校正、募集要項の確認に、ソフトウェアライセンスの使用許諾の熟読。
企業との秘密保持契約書で、先方有利なことが書かれていないかのチェックを教授に頼まれたこともある。
専門家でもない事務スタッフが対応できる範囲はしれていたが、多忙な教授はとにかくこちらに振って、できることを手伝ってもらいたいらしかった。
「できますか?」
その一言とともに、添付ファイルだけ添えられたメールに、松本と右往左往することも多い。
本は、好きな方だった。人生を豊かにするために、心身のご機嫌をとるためにも、以前までは月に数冊は必ず読んでいた。
二年半。前向きに日々働けていると思っていたけれど、今の仕事のために本が読めなくなっているなら。この書店と一緒に、いつか自分の心も閉じてしまうのだろうか。
ああ、やだやだ。
早く帰った日、こういう余計な考えに襲われて、かえって疲れてしまう。いつものように、残業してずっと仕事のことを考えていた方が、いくらかマシだった可能性すらある。
店内奥まで進むと、歴史小説に、学習教材の棚が見えた。普段触れることのなくなった紙の書籍が、どこまでも並んでいる。腰の高さにある漫画本の新刊コーナーも、知らないタイトルばかりだった。
店内は少し空いており、棚のあちこちに「閉店セール」の赤い札が貼られていた。
そういえば、と逢坂は思う。
アルからもらったお土産のラグマット。教授やスタッフ用にと持ってきてくれた、猫の模様が織り込まれたもので、浴室の足拭きに使えるくらいの小ぶりなサイズだった。それでも手に取ると、厚みのある織り目が指先に沈み、上質な品であることがすぐにわかった。
何か返した方がいいかもしれない。
文具売り場を見る。メタリックな素材のペン、少し豪華な装丁のノート。それらを手に取っては、戻す。逢坂は、レルメドールについて国柄も食文化のことも、何も知らなかった。
大して会話もしておらず、本人の趣味もわからない。
菓子売り場も見た。しかし、食べられないものがあるかもしれない。空港からの帰り道、交わしたのは無難なやりとりだけだった。宗教やアレルギーの話も聞いておくべきだっただろうか。
研究書の棚を見ても、難しすぎて、何がいいかわからない。
語学?
彼の英語は自分でも聞き取りやすく流暢に思えるし、日本語の本も押しつけがましい気がした。
困って歩いているうちに、写真集コーナーへ出た。
猫の写真集……は可愛いけど喜ばないだろう。
「私じゃないんだから」と独り言を言い、逢坂は本棚の他の候補に視線を這わせた。
そこで一冊の本が目につく。同時に、足も止まった。
『日本の水族館』
表紙いっぱいに、大きな青い水槽が載っていた。
これだ、と思った。
研究のことは詳しくわからない。でも五十嵐先生やアルが魚を扱っていることは知っている。先生とのオンライン面談で、魚の話になった途端、彼が早口で話しはじめたのを思い出す。
ページをめくる。
巨大水槽、深海魚。群泳、光るクラゲ。
アルなら、こういうのが好きかもしれない。
値札を見る。
閉店セールで少し安くなっていたとはいえ、やはり高価だ。でも、最後の一冊だった。それが、決め手になった。
レジに持っていきながら、逢坂は思った。
研究の一助になるかはわからない。でも、彼が日本に来た意味のひとつくらいには、なるはずだ。
水槽を見つめていた彼の目を思い出す。
彼にこれをあげるのは、彼のためではあったと思う。けれど、あそこまで何かに夢中になれない自分が「忘れていた情熱を託したい」という、エゴでもあったのかもしれない。
せめてもと思い、逢坂は店を出たら、百円ショップのラッピングコーナーを目指すことに決めた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。