善意の暴力【創作】
ある朝のこと。その通知がきたのは突然だった。
メールの件名は短く、感情を含まない無機質な言葉だった。契約の解除、認証の失効、そして返金対応。理由欄には「資金の一部に不適切な流れが確認されたため」と本部による調査結果が記載されていた。しかし「不適切」という言葉の中身は書かれていない。また、公開される予定もないらしい。
返金される金額を見て、私は一瞬、安心した。今月の支払い分は返ってくる……。失ったものはない。そう思おうとした。
でも、画面を閉じたあと、胸の奥に残った感覚は、安堵とは違っていた。
* * *
そのセミナーに通い始めてから、私は少しだけ自分の人生を信用できるようになった。前向きな言葉。意欲的になれる姿勢。控えめでも、誇らしく思えるような気持ち。
毎週木曜の夜、駅前の雑居ビルの三階にある教室で、私は同じ顔ぶれと机を並べていた。ポスターが少しだけ貼られた壁はほとんどの面が白く、プロジェクターの音はいつも少し大きかった。講師の言葉以外でその部屋に響くのは、椅子を引く音、筆記具が机をなぞる音、そしてたまに誰かの咳払い程度。
受付で名前を告げて、月会費を払う。決して安いとは言えなかったが、私は一度も高いと感じたことがない。ここで得られているものを考えれば、むしろ良心的だと感じていた。必要経費であり、未来への投資だ。
講師も誠実だった。言葉を選んで道を示し、データとして数字を出した。私たちを子ども扱いすることもなく、実践的な課題を与えた。中でも、提出すれば必ず返ってくるフィードバックからは、特にその熱心さがうかがえた。
私はそこで学んだことを使って仕事を取り、収入を得た。履歴書の経歴欄が充実していくことも、さらなるモチベーションにつながっていた。何より「私は役に立っている」という感覚を、初めて安定して持てるようになった。他のみなも、きっとそうだったと思う。
だから私は、喜んでお金を払っていた。
寄付という言葉はそこでは使われていなかったが、どこかそれに近い気持ちもあった。この場所が続いてほしい。この活動が広がってほしい。そう思って、追加の支援にも迷いはなかった。
自分の支払った金が、教室の維持や、新しい教材や、次の世代の参加者に使われる。それは、素晴らしいことに違いなかった。
* * *
例の雑居ビルに、もう一度足を運ぶ。三階はもはや、もぬけの殻だった。熱心に集まっていたメンバーは、誰も姿を見せない。あんなメールが届いたのだから、当然だ。もうここに、用事はない。
階段を下りながら、考えていた。この日は風が強く、私は思わずコートで首元を覆った。
以前から、違和感がないわけではなかった。
資金の流れについて。その説明は、いつも大きな言葉でまとめられていた。アンケートの集計や、参考データの数字は具体的なものをいつも見せてきたのに。去った者からの批判的な意見も、取り上げずに自然と遠ざけられていたように感じる。
「組織は成果を出しているのに、なぜ足を引っ張るのか」という講師の強い言い回しを、何度か耳にした。でも私は、それを現場の環境を防衛するための手段だと思うことにした。だって、結果は出ている。人が救われている。自分も救われている。なら、多少の粗い部分には目をつぶるべきではないか、と。
* * *
その後のニュースで、少しずつ詳細が出てきた。横文字で並ぶ、遠い国の名前と組織名、そして数字。武装、衝突、死者。そしてその……資金源。
読んでも、ろくに頭に入ってこない。しかしスマホで文章を手早くスクロールしていたとき、その一点で目に留まった。
セミナーのグループ会社名が、そこにあった。
私の払った会費が、直接それらを引き起こしたわけではない。そう何度も自分に言い聞かせた。私の金額は小さい。私の意図は善意でしかなかった。私は知らなかった。
コミュニティでは、言葉が溢れた。
「騙された! 私たちは被害者だ」
「全部、運営が悪い」
「こんな形で終わるなんて信じられない」
「講師の先生を信じていたのに……」
同じテンプレートを使いまわしているかのように、似た言葉の羅列があった。一瞬、指がうまく反応せず、スクロールが引っかかる。
きっとここには、一緒に参加していた仲間たちの声も含まれているだろう。そのどれもが間違ってはいない。でも、読み進めるうちに、私は自分がその言葉に完全には乗れないことに気づいた。
なぜなら、「自分たちも加担させられていた」の言葉がどこにもなかった。
不適切なことがあった。目には見えていなかったかもしれない。でも、違和感に声をあげられなかった私たちは「純粋な被害者」の立場でいていいのか。安全な場所にいていいのか。それすらも、考えることを放棄しているのか。
私たちは、確かに得ていた。
名刺の数。Web明細の数字。明日への活力。笑顔になれる瞬間。それらは、この機関がなければ手に入らなかったかもしれない。少なくとも、こんな形では、他ではどうあっても得られなかった。
「お世話になっていたのに、残念です」
残念だ、とこぼしておけば、それでおしまい?
でも。
じゃあ、私は何のためにここに来ていたのか。何のためにお金を払っていたのか。
過去のこと。感謝と、怒りと、目を逸らしてきたもの。そのすべてが一直線上につながっている。その事実が、私の胸を串刺しにして貫く。
私の支払いは、教室の電気代になり、講師の報酬になり、どこかで他の何かと混ざって、別の場所へ流れていった。その途中で起きたことを、私は知らなかった。でも、知らなかったことと、無関係であることは、同じではない。
返金されたお金は、口座に残ったままだ。
下ろして、使ってしまうことはたやすい。娯楽に、自己投資に、何にだって使ってしまえる。コンビニに、すぐそこにATMがある。ほら。
でも、そこで私の指が止まる。寄付もしない。抗議もしない。正しい言葉も、強い言葉も、今の私には出てこない。ただ、自分が得たものを「全部嘘だった」と言うこともできない。
拠りどころは失った。でも、弱い私に戻ったとは、思いたくない。
* * *
私はひとり、自室に戻って部屋の明かりを点けた。パソコンに向かって、メーラーを立ち上げる。
講師とやりとりをしていた連絡先に、個人的にメールを送った。短い内容だった。
それは、いくら待っても、返信は戻ってこないかもしれない。まだ本件での対応が尾を引いて、忙殺されているかもしれない。
講師の話に熱心に耳を傾けていたかつての私は、これから自分がなにかをするとき「いいことをしている側」に立ちたいと思っていた。その側に立てていなかったとして、「なにも知らなかった」と言いたくはなかった。
未来のこと。時間をかけて理解できるもの。引き受けなければならない事実。両方が同じルートを通って私の方に伸びている。それは、私を刺すのかどうか、わからない。
真実を知ってしまった自分と、これからどう生きていくか。それだけが、今まだ、私の手元に残っている。
……いや。
残っている、と思わせてほしい。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。