四等分の夜【せりふ三題噺 / グリューワイン髭包み紙】
別荘と呼ぶには大袈裟な一軒家は、山道を少し入ったところにあった。都会住みの我々にとって、自然の中の緑は新鮮だ。論文が出た祝いだと言って、久しぶりに四人で集まった。
「加賀谷先生のメールが、短文すぎて理解できないんですよ。」
来るのに迷ったと、最後に到着した舘岡が私に不平を言った。車を降りてしばらく歩いたせいか、もう彼の服は汗にまみれていた。舘岡は、かつて私の研究室のスタッフだったが、今は企業勤めをしている男だ。
「昔から細かいな。色々立て込んでいて、丁寧にメールを書く時間がなかったんだ。」
私はまだ、医療と研究の両方に身を置いている。今回出した論文では、筆頭著者になった。長年続けてきたテーマで、共同研究で収集したデータを基にとりまとめたものだ。結果は、現場での判断支援や医療安全の改善に活かされ、少しずつ社会実装も進んでいる。
「それにしても……。加賀谷先生、論文発表、おめでとうございます。」
「堀内くんか。ありがとう。」
堀内は、現場から離れられない性分だと、大学病院に残ったままだ。彼女は声も仕草も若々しく、昔と変わらない。今回の別荘は、彼女の所有ということで、ご厚意に甘えて使わせていただく運びとなった。
「俺まで声かけてもらっちゃって、すんません。」
堀内の後ろから、緑川が顔を覗かせて言った。彼は、当時は他研究室の所属だったが、短期の共同研究で私の研究室へ出入りしていた。久々に見た緑川は、少し以前より痩せていたが、元気そうだった。
「緑川くんも、プロジェクト開始時のコアメンバーなんだから当然だ。わざわざ遠方から、出向いてくれてありがとう。」
「この部屋は涼しいですね。緑川さんは今、お仕事は何されてるんです?」
まだ暑そうにしている舘岡が、緑川に尋ねる。一瞬、間が空いて、「まあ、研究とは関係ない仕事ですよ」と答えていた。
ともかく、これで全員揃った。我々は、部屋を移した。廊下の突き当たりには、畳んだ布団が立てかけてある。客が泊っていけるように堀内が準備したものだろう。
* * *
洋間に通されると、照明は思ったより落としてあった。暖色のスタンドライトが壁際に置かれていて、天井灯は点いていない。昼間なのに、少し夕方みたいな色だった。
テーブルは低く、中央に何もない。祝うには簡素で、沈黙しても気まずくならない、ちょうどいい広さだった。
「先に冷蔵庫、見てきますね。」
そう言って堀内が立ち上がった。白衣のときと同じ動きで、扉を静かに閉める。数分後、両手に箱を抱えて戻ってきた。
「溶ける前に、と思って。」
箱の側面には、街でよく見る洋菓子店のロゴが印刷されていた。夏向けの、軽そうなショートケーキのホール。白い箱を開けると、生クリームの匂いがふわっと広がった。
「ちゃんと四人分ありますか?」
甘いものに目がない舘岡が、冗談めかして言う。堀内は小さく笑って、ナイフを取り出した。
「均等に切りますよ。こういうの、意外と揉めるんで。」
冗談なのは分かっている。別に、なんのことはない掛け合いだ。
ナイフがスポンジに入る音は、思ったよりはっきりしていた。一度、二度。堀内は慎重に、四等分に切り分ける。苺の位置を微調整して、どの皿のものも同じに見えるようにした。
皿に乗せられたケーキは、どれも同じだった。公平で、きれいで、祝いの席にふさわしい。
ナイフを置こうとして、堀内の手が一瞬止まった。刃の縁に、白いクリームが薄く残っている。
「……あ。」
誰かが声を出しかけて、やめた。堀内はそのままナイフをテーブルの端に置いた。拭き取ることも、舐めることもしない。私は、そのクリームから目を離せなかった。どの皿にも乗らず、誰の分でもなく、それでも、確かにそこに残っている。
「……飲むものはありますか?」
緑川が、堀内に尋ねた。招かれながらも、隙あらば酒を飲もうとするところは彼らしい。
「私、普段は飲まないから──でも、冬の残りの、ノンアルのグリューワインが奥にあった気もする。」
「夏にそういうのも、いいもんすよ。」
水や炭酸水、甘くない飲みものに混じって、そのワインもテーブルに並んだ。
* * *
「じゃあ……あらためて。」
私が言うと、全員がフォークを持った。ワインのグラスが、かすかに触れ合う。
「論文、ほんとにおめでとうございます。」
舘岡が言った。緑川は頷き、堀内は小さく息を吐いた。
「いや、ありがとう。」
乾杯のあと、自然と研究の話になった。関連分野において着目されている技術や動向、最近のトレンド──しかし、医療事故のニュース、過労の問題、論文不正。話題がそういったことに触れるたび、会話が同じところで止まる。私は気づいてしまった。四人とも、同じ話題で黙るのだ。
「めでたい席で、辛気臭い話はなしにしましょうよ。」
誰かが言う。
「ああ……。」
そう答えながらも私は、クリームのついたナイフの刃先をまた見ていた。
「ねえ、加賀谷先生。」
そこで、意を決したように堀内が言った。
「あの子には──あの子のご両親には、何かされたんですか。」
四人が揃えば、いつか触れないわけにはいかない話題だった。私の研究室で、命を落とした大学院生。沈黙の時間が、みなの当時の記憶を想起させていた。
* * *
今回私は、あの研究を引き継いで実直に続けたことで、「彼女」の努力を無駄にせず、成果として世に出すことができた。
彼女の研究は、過労状態にある医療従事者の認知機能を測るものだった。睡眠不足、長時間労働、精神的負荷。それが判断エラーの頻度にどう影響するか。現場に近いテーマで、だからこそ評価や期待も大きかった。
彼女自身が、被験者になることも多かった。
「疲れてないと、データにならないですから。」
そう言って、夜通し実験を続けた。断眠状態での認知テスト。覚醒を保つためのコーヒーと市販薬。研究としては、どれも規定の範囲内ではあった。
しかし。彼女は亡くなる以前から、実験の時間が長期にわたると、笑うような、泣くような声を出していたと、誰かが言っていた。
そして倒れた夜も、実験は深夜に及んでいた。
あの夜。
私は、その声を覚えている。陽気な歌声のようで、少し哀愁の漂うような、そんな声。実験室でのその声は、私のいた教授室へも届いていた。
設備の騒音や、エアコンのファン。ノイズにかき消されそうになりながらも、届いてくる声。
──外からの声だろう。
そんなはずがないのに、私は軽く聞き流していた。
誰も、研究データには手を加えていない。今回出た論文の正当性は担保されており、データにも嘘はない。そこだけは、全員が自信を持って言える。
* * *
当時も今も病院で勤務する堀内は当時、実験室利用記録を管理する立場だった。私の研究室、そして実験室は、病院構内の施設の一部フロアにあった。
「彼女」の死のあと、堀内は医療的な評価を書いた。
『即時に生命の危険があったとは判断できない。』
それは、「一般論」に寄せた医学的に正しい内容だ。
夜間勤務・当直記録の扱いは、当時の時勢もあって正直曖昧な部分があった。まだ、電子資料に移行する前の、紙の様式。だから、堀内は──当日夜の実験室利用記録の一部を、手修正していた。
当時の研究室スタッフの男、舘岡はよく言っていた。
『研究室じゃ、よくある状態でしたよ。』
それも、嘘ではない。
学生が夜間に研究室を訪れることも、早朝に実験室の扉を開けることも珍しくない。舘岡は研究室入口のスマートロックや室内のデバイスを管理しており、「彼女」が常時研究できるよう鍵や設備、環境を提供した。
当日夜の入退室のログは、彼女でなく舘岡が出入りしたという内容で記録に残っていた。キーロックのリモコン鍵を、舘岡が彼女に貸し出していたためだ。
夜間作業を希望する学生が、上長に認められない場合などに代替的に行っていたグレーな手段だった。
他研究室に所属していた男、緑川。彼は、積極的に「彼女」にかかわることはなかった。
『みんなやってた。他の研究室の実験も、同じようなもんだ。』
その言葉だけを彼女に残した。過労文化を、相対化させる言葉。
当日の、夜間の実験室利用の理由欄は、緑川が代理で書いた。毎回同じ目的での利用だと許可が厳しくなるからと、彼女に頼まれたためだ。彼は自身の実験ではなかったし、深く考えもしなかった。
緑川は、発覚後も多くを語らなかった。彼は当時、就職を控えており、研究室に立ち寄る機会は徐々に減っていった。そして、ワゴンに私物をいくつか残したまま、消えるようにいなくなった。
所属上では私の研究室の「外側」にいた彼は、誰よりもあの「事故」の関係者になることだけは避けたかっただろう。
彼らの「報告」を受けて、私は研究の外側にあるその記録を整えた。時系列、言葉の選び方、主語の消し方を、自然に。
「研究継続中」は「作業中」に置き換えた。「断眠」は「疲労」にした。体調の違和感は「自覚症状なし」として、まとめた。
メディカルライティング研修の悪い記載例を思い出し、「そうとも取れる」ようにぼやかして書いた。
事実は消していない。特定の内容でとらえられかねない、意味だけを消した。報告書は、形式的には何も問題がないかたちで仕上げられた。
「無理はやめた方がいい。被験者になることも、夜通しの実験も。」
そう言うと、彼女は決まってこう返した。
「でも、大学の倫理審査も通ってる研究ですから。」
何度か、みんなで声をかけていた。誰も、強制していない。本人が望んでやったことだった。
しかし。
今思えば、それは注意ではなかった。声かけをしている事実を、互いに確認していたにすぎない。
「彼女」の、覚醒目的の過剰なカフェイン摂取や、併用している市販薬の包み紙をいつも見ていた。それが見える距離に、私たちはいた。
──それでも、誰も彼女の肩をつかまなかった。善意の不作為で、彼女は──。
彼女が最後に触ったログは消えた。誰が消したのかは、誰も言わない。消えたことだけは、全員が知っている。
あの日。
電気がついていて、開錠されているのに、誰もいない早朝の実験室。発見したのは、私だった。実験台の傍から、床に両足だけが伸びている場面は、忘れたくても忘れられるものではない。
論文が出たあと、私はご両親に会いに行った。本当は彼女を著者に入れたかったこと。制度上、それはできなかったこと。善処した結果、謝辞に名前を記したこと……。それらを伝えた。
父親は静かに頷いた。母親は泣きながら、こう言った。
「名前が残るなら、それで十分です。」
論文の謝辞には、彼女のフルネームが一度だけ、載っている。貢献者であることに間違いはないが、執筆内容の責任の外側に置かれた名前だった。
* * *
彼女のことを思い出していたら、私はソファで眠ってしまっていた。身体を起こす際に顔をしかめる。この年になると、長時間姿勢を崩していると腰や肩がひどく痛む。
同じように、堀内と舘岡も、座りながら意識が飛んでいたようだ。みんな、日ごろの業務で疲れ果てているのだろう。隣でも、緑川が寝ぼけた眼をしていた。そして、口を開いて一言。
「……線香でも、持ってくればよかったかな。」
遺影も墓もない家で、四人とも中央のテーブルを向いて黙った。
外で、ばささっと羽音が聞こえ、鳥が鳴いた。
──ホーホッホッホッ。
じわりと汗がにじむ。
あの夜、彼女の声を外の音だと思えたのは、私がまだ「人」のままでいたかったからだ。事故にしてしまえば、誰も間違っていないことになる。
私は今も研究を続けている。正しい手続きを守りながら。それでも、彼女の研究結果よりも正確に残っているのは、あの声だ。
寝起きの顔は、さぞ、ひどいもんだろう……。
ふと、部屋の鏡に視線を移す。
やつれた顔をした男の髭には、クリームが少し残っていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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